8/1:8月は戦争と祭がとりわけ際立つ。8/2(土)青森ねぶた祭 8/3(日)秋田竿燈 8/5(火)山形花笠祭 8/6(水)広島原爆の日・仙台七夕・東京佃祭 8/7(木)立秋 8/9(土)長崎原爆の日・満月 8/11(月)山の日 8/12(火)阿波踊り 8/15(金)終戦記念日・月遅れ盆 8/16(土)京都・箱根大文字 8/23(土)処暑 8/31(日)二百十日
・八月の祭りの中に願いあり
8/2:困っていることとして就寝中のトイレの回数がある。今はおよそ1時間半毎に喉の渇きを伴ってトイレに行く。推測ではレム睡眠・ノンレム睡眠と関係あるのではないかと思っている。レム睡眠とノンレム睡眠の割合は、一般的に、レム睡眠が約20~25%、ノンレム睡眠が約75~80%。レム睡眠は、脳が活発に活動し、記憶の整理や定着が行われる浅い眠りの段階。一方、ノンレム睡眠は、脳が休息し、疲労回復に重要な深い眠りの段階。睡眠のサイクルは、ノンレム睡眠とレム睡眠が交互に現れる周期で構成されており、一般的に90分周期で繰り返されru。睡眠の後半になるにつれて、レム睡眠の割合が増加する傾向がある。高齢者はレム睡眠の割合はほぼ変わらないが、ノンレム睡眠の深い眠りの割合が減少すると言われている。
・病すすみ気持はいつも熱帯夜
8/3:8月には太平洋戦争や原爆関連の情報が多くなる。その月に限らず、それに関心を寄せてきた。1947年生まれの私は、小さい頃、新宿や上野など街角で傷痍軍人による義援金?活動に接するたびに、異様な感を受け、遠くから見ていた。ニューギニアで衛生兵として参戦した父からは、その当時のことを聞いたこともない。成長してからは社会問題に関心をよせるようになり、三里塚闘争などにも加わり、また母が生まれ育った日本統治下の朝鮮問題を調べ、太平洋戦争についてもっと知っておきたいと思うようになった。その延長で幸福社会を目指す特異な共同体に参画し、そこで25年余暮らし50歳代後半になってそこを離れ、その後は福祉活動に携われるようになった。60歳を過ぎてから、90歳を超えた二人暮らしが厳しくなった義父母と暮らし、義母から朝鮮・元山からの引き揚げ体験の話、義父から朝鮮時代や参戦の話をよく聞くようになり、その頃の日本社会や戦後についていろいろな角度から考えるようになった。
また、戦後80年になり、先の戦争体験者が次々とお亡くなりになる現状からも、多少なりともその様相を知る者として、繋げていく役割はあると思っている。
・過去のこと滴りとなり未来へと
8/4:7月25日に、おとなのEテレタイムマシン「ETV2000 井上ひさし 原爆を語る」再放映された。1994年8月放映の「ヒロシマ・ナガサキ」というテーマに正面から取り組んできた作家・劇作家の井上ひさしが21世紀に向けて原爆をどう伝えていくかを語る2夜連続のシリーズ。父や友人を死なせて自分だけが生き残ってしまったという罪の意識に苦しむ若い被爆女性のもとに父の幻が現れ、広島弁であたたかな対話を交わす芝居「父と暮せば」は、井上ひさしが悩みつつ原爆をテーマにして書き上げた戯曲である。残された被爆者の手記からその思いを汲み取り、具体的な言葉を拾い、芝居に作り上げていったと言う劇作家・井上ひさしが辿った思索の過程を、山根基世アナウンサーが聞く。◆第1回は、井上ひさしが資料や手記から庶民の原爆体験をどう読み込んだかを語る。◆第2回は、井上ひさしが原爆をテーマに書き上げ、1999年以来、毎年夏に公演を続けている戯曲「父と暮せば」を素材に、彼自身が文学者として、一人の日本人としてどのように原爆を伝えていこうと考えているのかを語る。今年の8月2日には、ETV特集「ピカは人が落とさにゃ落ちてこん」を再放映。1994年8月22日放送のETV特集。芥川賞作家・林京子さんと画家・丸木俊さんが、自分の被爆体験をいかにして作品に結実したかを語る。原爆投下では、広島で約14万人、長崎で約7万人が死亡した。被爆者は今日に至るまで心理的トラウマやがんのリスクに悩まされている。このような番組は見逃すこともあり度々取り上げて欲しいと思う。
・原爆は人が落とさにゃ落ちてこん
8/5:BBC・2025/06/27によると、トランプ氏はアメリカ軍がイランの核施設に行った攻撃をめぐり、25日「あの一撃で戦争は終わった」、「広島の例は使いたくないし、長崎の例も使いたくないが、本質的には同じだ」と記者団に話した。米国では原爆投下が第2次大戦を終わらせたとして正当化する声が根強い。当時の日本の軍部をはじめとする上層部の精神状況をみると、そのように思われても仕方のない一面はあるにしても、一国を代表する政治家であり、原爆を落とした国の大統領の発言としてはあってはならないと私は思う。
・仏法僧言つていけないことがあり
8/6: 広島市の平和記念公園で6日、原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)が営まれた。戦後80年を迎える今回は過去最多120の国と地域の代表が参列。広島市の松井一実市長が平和宣言で核兵器廃絶をあらためて訴え、石破茂首相、広島県の湯崎英彦知事もあいさつ。湯崎知事が、核抑止を「フィクション」と断じ、「自信過剰な指導者」らによって破られる危機があることを警告したスピーチが印象に残った。
夜はNスペ「広島グラウンドゼロ 爆心地500m生存者たちの“原爆”」をみる。
・核抑止は「フィクション」なり夏果てぬ
8/7:クローズアップ現代「戦後80年スペシャル テレビが伝えた“あすへの希望”」をみる。〈敗戦からの復興を遂げ、経済発展へと繋げた時代。暮らしに豊かさがあふれた時代。そして、バブル崩壊とともに、未来への不安を抱くようになった時代・・NHKのアーカイブス映像に残るのは「きょうよりもいいあす」に希望を抱き、生きてきた人たちの姿だ。テレビが伝えた“あすへの希望”を軸に時代を象徴した出来事や人物を改めて取材。いま課題となっている問題を見つめ直し、私たちは今後どう歩んでいけばよいのか探る〉番組を見て、自分の78年の人生と重なっているなと思った。
・戦後と重なる我の人生秋に入る
8/8:永田浩三『原爆と俳句』(大月書店、2024)をブログに紹介。※毎日新聞『季語刻々』8/7で「地を摑む羽化の蟬あり爆心地 赤井伏竹」が紹介され、その文中に「永田浩三『原爆と俳句』」に触れていた。印象に残ったので、その著作について調べた。〇本書案内より:原爆という人類の課題に対して、俳句がどのように向き合ってきたのか。原爆投下直後のヒロシマやナガサキで詠まれた俳句があった。俳句で原爆を記録したひとたち、今も火種を絶やさずつなぐひとたちを長年の取材を通して綴る。[目次]はじめに 俳句は生と死の境界を見つめる 第1章 原爆俳句への軌跡 第2章 第二芸術論の衝撃 第3章 ヒロシマを詠む 第4章 ナガサキを詠む 第5章 東京から原水爆を詠む 第6章 表現者たちの格闘 第7章 沖縄と福島 おわりに 補論 原爆と川柳。《著者より:俳句は生と死の境界を詠う文芸と言われます。人類最大の悲劇のひとつである原爆に対して、俳句という世界で最も短い、わずか17音の詩のかたちがどのように向きあい、格闘を続けてきたのかをみつめた本です。正岡子規の時代から、俳句は花鳥風月にとどまらず、社会性・時事性を帯びたテーマを盛んに扱ってきました。原爆をどう詠むかは、俳人にとって試金石でもありました。1954年のビキニ事件を契機に、広島と長崎のひとたちは、相次いで「句集広島」「句集長崎」を世に送り出します。そこには、ダイナミックな人間のドラマがありました。年に一度、8月6日、9日に原爆忌を詠む、その営みを80年続けてきたことのすごさを思います。俳句という詩がどのような地平を拓き、ひとびとの核兵器への理解を深めることに貢献してきたかをわかっていただきたいと思います。帯の推薦文は、ノーベル平和賞を受賞した日本被団協の田中煕巳代表理事が、オスロに向う直前に書いてくださいました。》
・広島や天に星地は蝉時雨
8/9:広島の平和式典で、石破首相は被爆者でもある歌人・正田篠枝さんの短歌を2度にわたって読み上げた。その歌は歌集『さんげ』にあり、「太き骨は先生ならむ そのそばに小さきあたまの骨 あつまれり」。平和公園前にある『教師と子どもの碑』に、首相が引用した歌が刻まれている。原爆の犠牲となった子どもたちと教師の無念さを表現している。長崎の平和記念式典では、永井博博士(1908~1951年)の「ねがわくば、この浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえ」という言葉を紹介。挨拶で、首相は「長崎医科大学で被爆された故・永井隆博士が残された言葉です」と説明し「長崎と広島で起きた惨禍を2度と繰り返してはなりません」と語った。
・最後の原子野たらしめたまえ秋の天
8/10:「元学園生の手記を読んで 吉田光男(2)(ヤマギシズム学園考19)を投稿。「百万羽子供研鑽会」という子ども向けの研鑽資料を紹介。この資料は昭和33(1958)年8月の日付があり、春日山に百万羽が発足した当初、参画者の子どもたち用に書かれたものとされている。ここに言われている「先生やおとなの人」という言葉は、「学園の係や村の大人」と言い換えることもできる。つまり、係の言うことも「そのとおりとしないで考える」ということである。学育や学園という仕組みができる前に、学育の考え方が既にはっきりと示されていたのである。
・秋が来て子どもは親を超えにけり
8/11:歌人・正田篠枝さんの歌集『さんげ』についてを投稿。その中の歌集『さんげ』に伴う記録から、中国新聞デジタルより(2025/01/31)とsentoku-jiさんの投稿(2025/7/14)2編紹介した。一般的に、「さんげ」には「散華」・「懺悔」の2通りの解釈を思う。「散華」は、花と散るの意で、戦死を美化して言う語。「懺悔」(ざんげ、さんげ)とは、それぞれの宗教における神、聖なる存在の前にて、罪の告白をし、悔い改めることをいう。むろん、正田さんは「懺悔の思い」で、歌集名を『さんげ』とした。なお、ウイキペディア「正田篠枝」で、その特色を代表歌と共に記録している。
・耳底にしじまの音や原爆忌
8/12:朝ドラ『アンパン』を、妻は欠かさずみているようだが、私は朝食時と重なることもあり。また脚本がDoctor-X 外科医・大門未知子など手掛けている中園ミホで面白く視ている。『あんぱん』は、「アンパンマン」を生み出したやなせたかしと小松暢夫婦をモデルに、「アンパンマン」にたどり着くまでを描くフィクションのドラマオリジナル作品である。『あんぱん』は「80年前の戦争や日本の状況」を丹念に描き制作統括が込めた“変わらない正義”への問いが伺える。
・変わらない正義を求む秋の声
8/13:朝ドラ『アンパン』の制作統括の倉崎憲は〈「2025年は放送100年ですが、僕にとってはそれ以上に戦後80年という節目が重要でした。この年に朝ドラで何を描くべきかと考えたとき、戦地に数年間行かれていたやなせさんの存在は大きいのではないかと。やなせさんと暢さんご夫婦を朝ドラでやりたいと思ったのは、やなせさんのいろいろな著作を読んでのことですが、なかでも『ぼくは戦争は大きらい』という書籍があって。中園さんと2回目にお会いしたときに、その本をお渡ししたのがそもそもの始まりでした」と、やなせの戦争体験こそが企画の出発点だった。という。「やなせさんが戦地で一番つらかったのは空腹だったと。それが『アンパンマン』につながる要素の一つでもあるので、かなり早い段階から戦争パートをしっかりと描こうとチームで決めていました。(終戦から)80年経った今なお戦争が続いている中で、やなせさんの体験を描くことには大きな意味があると思っています」〉。また、脚本担当の中園ミホは「やなせたかしを描くことは戦争を描くこと」と述べている。
・朝ドラにかける思いや秋澄みぬ
8/14:磯貝昌寛さんの投稿から。《「新しき世界へ」先日、久しぶりに赤ちゃんとじっくり触れ合う機会があった。健康な赤ちゃんを見ているとホントにシンプル。お腹が空いたとき、眠い時、ひとりで淋しい時、おしめが濡れた時、赤ちゃんが泣く時は本来、これだけである。お腹が満たされていて、眠くなく、周りの人たちと楽しく遊べて、おしめがきれいだったら、赤ちゃんはニコニコしているものである。 食べて、寝て、遊び、排泄することが命の根源であるのだが、大人の生きている社会はずいぶんと複雑怪奇なモノへと変容してきた。食べて、寝て、遊び、排泄するというシンプルな生活からかけ離れ、仕事をする、税金を納める、人間関係に悩む、病気に悩む、お金に困るなど、大人の問題は数えがあげたらキリがない。 さらには、食べて、寝て、遊ぶ、排泄すること自体が順調にいかないがいかに多いことか。摂食障害、不眠症、人間関係に悩む、排泄障害も陰陽さまざまある。 本来はこの4つはすべて気持ちの良い、悦びに充ちたものである。食べることの喜び、寝ることの気持ち良さ、遊ぶことの楽しさ、排泄することの快感、人間は本来、知っているはずである。それがいつの間に、苦痛に変わっていってしまうとは一体ナゼなのだろうか。今では子ども達でさえ、本来はよろこびに溢れた4つの生理活動が苦痛に感じる子もいる。 子どもでさえ、この4つの生理活動がうまくいかないということは、今の社会が命の本質から乖離していることを、如実に示している。この状態が続くということは、人間から組織まで完全な疲労を起こしているのではないかと思う。制度疲労を起こしているといってもよい。不登校の子ども達が増え続けているということもその表れのひとつだろうと思う。》
・食べて寝て遊び排泄さはやかに
8/15:夜1988年のスタジオジブリ高畑勲監督作「火垂るの墓」をみる。野坂昭如の直木賞作品をアニメドラマ化したもの。本作は戦時下の日本をリアルに描くとの企画。本作のドキュメンタリーのような再現性は徹底した下調べの賜物であり、とても見応えがあった。高畑は、「本作では兄妹が2人だけの閉じた家庭生活を築くことには成功するものの、周囲の人々との共生を拒絶して社会生活に失敗していく姿は現代を生きる人々にも通じるものである」と解説し、「特に高校生から20代の若い世代に共感してもらいたい」と語っている。また、「当時は非常に抑圧的な、社会生活の中でも最低最悪の『全体主義』が是とされた時代。清太はそんな全体主義の時代に抗い、節子と2人きりの『純粋な家族』を築こうとするが、そんなことが可能か、可能でないから清太は節子を死なせてしまう。しかし私たちにそれを批判できるでしょうか。我々現代人が心情的に清太に共感しやすいのは時代が逆転したせいなんです。いつかまた時代が再逆転したら、あの未亡人(親戚の叔母さん)以上に清太を糾弾する意見が大勢を占める時代が来るかもしれず、ぼくはおそろしい気がします」と述べている。
・家族とは社会の一つ蛍草
8/16:原作者の野坂は、映画公開前年に発表した文章「アニメ恐るべし」の中で、「いわゆるアニメの手法で飢えた子供の表情を描き得るものかと、危惧していたのだが、これはまったくぼくの無知のしるし、スケッチをみて、本当におどろいた。(中略)ぼくの舌ったらずな説明を、描き手、監督の想像力が正しく補って、ただ呆然とするばかりであった」とその緻密さに驚き、場所も含めたその描写によって自分が「眼をそむけつづけてきた」過去と「今は、少し正直に向き合っている」と記している。
・戦争をアニメで語るひややかに
8/17:よく参考にしているブログに『内田樹の研究室』がある。25/8/15は「負けてよかった」とのタイトルで述べている。《------「敗けてよかった」というのは、戦争中の日本の実相を知っていた人たちにとってはごく自然な感懐だった。少なくとも1950年代まではそうだった。 でも、私たちはもうそのような言葉を語ることができない。「戦争に勝っていたら」という想定そのものが私たちにはできないからだ。「勝ち誇った日本」というものがどんなものだったのか、私たちには書物的な、限定的な知識しかないからだ。 このような戦中派の生々しい言葉を伝えることのできるのは私たちの世代が最後であるけれども、その世代の人たちも次々と鬼籍に入っている。それゆえ備忘のために記しておくのである。》自分(たち)の世代の役割と私は思っている。
・伝えるべし負けてよかつた敗戦日
8/18:『永田耕衣五百句 ―耕衣生誕百年記念』(金子晋編)を読む。金子は永田耕衣(1900〜1997)の俳句を五期に分けて解説している。ブログに増殖する俳句歳時記をあげた。〈★少年や六十年後の春の如し。耕衣、七十二歳頃の句です。現実を反転させてみると、時に奇想が生まれる一例です。前後を入れ換えることによって、句が屹立しています。老人が少年を見れば、ふつうなら六十年前の自分を思うでしょう。私も昔は少年だったと懐かしむ。しかし、これでは凡庸な嘆きです。72-60=12といった単なる引き算になってしまって、詩が成り立ちません。人生の時間には、詩的な時間もあるはずです。俳句はそのための方法です。掲句では、「少年や」の切れに注目します。目の前の少年は十二歳くらい。それは、七十二歳の私とは違う。しかし、私にも十二歳の時があった。今、その年頃を目の前にして、まぶしいくらいに思い出す、人生の春。一方、少年は私を見る。それは、六十年後の少年である。その時、少年は、老人の瞳の中に映っている少年の姿を見いだす。そして、自分は、人生の春という季節に生きていることを学びとる。少年は、人生における少年という位置を知り、老人は、少年の姿を受けとめることによって、その瞳と少年の瞳の間に六十年という歳月があることを差し示す。このとき、十二歳の春も七十二歳の春も、同じ春に生きています。人生に身を委ねるよりも、季節に身を委ねる。耕衣だから、そんな、季語の霊性と超時代性を読みます。『非佛』(1973)所収。(小笠原高志)〉
・老年や七〇年の秋思かな
8/19:詩歌文学館賞永田耕衣『泥ん』(1990年6月/沖積舎)より。《[受賞のことば] 老朽は叡智ということ 第六回詩歌文学館賞受賞のことば。〈思わずもこの受賞に恵まれまして真実鳴謝しています。人生九十を満喫の佳境、このさい天恵の如く思い出しますのは、イェイツの名詩「長い沈黙のあと」安藤一郎訳の八行詩七行目の十一字一句、《肉体の老朽は 叡智である、》です。この深大窮達の叡智を、身びいきに老朽しつつある私の《俳》境に受用させて貰えば、句的妄想の跳梁に当てはまる快適さです。妄想は即《生死》往来の自他《茶化し=諧謔》の品位格調でありたい、例えば《たわむれに老い行く如し冬の海》一句に漂う《自己韜晦》の儀式ともいえる関西的どろんの質量的容貌にすぎません。奇しくもこの度われの表題を被かぶる輓近の拙句集『泥ん』に、白羽の矢を立てて下さったこのたびの受賞は、生涯反芻不忘、最高の記念となりましょう。お蔭で野老は《歳月の弟子*私自身の弟子》のまま、死ぬまで《成長》して行くことが出来ます。九拝不尽。〉》
・いつまでも成長するや天高し
8/20:季語刻々などより。〈★秋だから俳気出てこいモーロクズ 村上ヤチ代 「俳気」は俳句ができそうな気配、あるいは俳句を詠もうとする気分。正岡子規は「頻りに俳句を考へつつあるに俳気ささず」子規は『仰臥漫録』にこの語を使った。村上ヤチ代は、高齢者が「ボケている」のではなく、むしろ「常識にとらわれず、自由で生き生きとしている」様子を「モーロクズ」と表現したとameblo.jpで述べている。〉
・病すすみ俳気出てこい冬隣
8/21:私はある共同体で、結構自分なりに考えてやっていたなと思っていたが、調べていくと、自分の頭というより、その集団独特の考え方で行っていたこともあるなと思う。そこを離れて25年程になるが、どうしてあのようなことをしていたのかと思うこともある。人は誰でも、その時代、社会状況、身近な環境の影響を受けながら、考え方、感性などを培い身につけていく。その自覚の中で、特にこれは大事なことだと思うことは、まず今の自分の見方はどうなんだろうと一旦留保しながら、問い続けることを大切にしたい。厳密にいうと、さまざまな影響を受けながら、自分の考え方を育てていくので、自分の頭で考えるといっても限界があるが、そこを自覚する必要があると考える。
・孤立した庭からさくや草の花
8/22:アウシュビッツの経験を問い続けたプリーモ・レーヴィに、「ありとあらゆる論理に反し慈悲と獣性は同じ人間の中で同時に存在し得る」(『溺れるものと救われるもの』(竹山博英訳、朝日選書)というような表現がある。ごく普通の人たちがナチス体制を支えていたとの記述がいくつか見られる。自分自身を振り返っても、様々な面があり、〈善・悪〉あわせ持っていると思っている(なにが悪でなにが善であるのかはいい加減な面があるが)。その自覚のもとで、少なくても「悪」の面を他に及ぼすことだけは避けたいと願っているのみである。
・身にしむや慈悲と獣性併せ持つ
8/23:当たり前のことだが、病弱者や障害者、あるいは老齢者や幼い子どもに限らず、人は自然環境に、他者たちに依存しないでは生きてゆけない。ところが現社会は「自立」した個人を前提とした秩序であり、何かを生み出すことを価値基準とする思考法である。成長、成熟ということをわたしたちの社会は、自分の身体を含めて、様々のことを自分でできること、生きるに必要な多くのものを「意のまま」にできることとして了解してきた。その考えに大いに影響されてきた自分もいる。他者たちに依存しないでは生きてゆけないと理念としては分かっているつもりだったが、このような身体状態になって、実感としてきたのを覚える。また、多くの方々や社会の仕組みに支えられているのを感じ、そのことにより敏感になっている。介護(介助)される身になって見えてくることも多々あるのではないかと考えている。
・この体ゆえにわかることあり秋の風
8/24:ETV特集「ヒロシマからの手紙〜“原爆”を綴ったアメリカ人たち」を見る。
〈80年前、原子爆弾投下を決定し、その正当性を主張し続けた米トルーマン大統領。だが終戦直前、ある議員宛ての手紙に、原爆で多くの命を奪ったことへの「後悔」を綴っていた。大統領、科学者、市民・・当時のアメリカ人の手紙には、核兵器の巨大な力を前に「国家の大義」と「個人の良心」の間で揺れ動く心が映し出されている。〉
番組では、原爆投下に何らかの意味で関わったアメリカ人の手紙を紹介し、その人々の人生を取材しているに留まらず、孫たち世代がその思いをしっかりと受け取る現在地点をも伝えている。科学者が幼い息子に向けて、その時の偽らざる思いを、息子の未来に託し、科学者の妻が、えぐられ、打ちひしがれる自らの感覚を反芻するために母に書き綴る……。トルーマンの手紙に見出だせたのは、原爆投下を指示し、水爆開発も許可し、原爆投下はアメリカ人を、日本人をも救ったと喧伝した公人としての、アメリカ大統領としての、一貫した発言の奥に密やかに持ち続けていた、何もかもを知る故の苦悩や葛藤だ。「手紙」のもつ力を思う:大勢が目にする前提では全くなくはっきりとした対象がいる。その人に宛てて、その人との関係性があった上で綴られる。
・孫に伝える手紙の威力原爆忌
8/25:いつも参照している新間草海氏のブログ『NHKドラマ『あんぱん』の考察』25/8/24の中で、4年前の記事『戦争とはなにか~やなせたかしの伝記から~』21/2/8の「戦争は人を殺すもの」について、クラス6年生の女の子の「「やなせさんは戦争で人を殺したと思います」に触発された新間氏の論考に、いろいろ考えさせられた。
ドラマ『あんぱん』について、新間氏は「少しだけ不安に思う」と言っているが、今後どうなっていくのか。
・子たちはアンパンそなえ月を待つ
8/26:「戦争とはなにか~やなせたかしの伝記から~」を読んで鶴見俊輔氏のことを思った。彼は第二次世界大戦で徴兵されてジャカルタで軍属として短波無線の傍受の仕事に就いた。その時期に、インド人の捕虜が伝染病にかかり、治療する薬が不足しているから、という理由で捕虜殺害命令が、自分の隣室の軍属に下され、その軍属は、毒薬とピストルを持たされ、実際にピストルで射殺したと鶴見氏に語ったそうだ。
それを聞いて、その命令が自分に下された場合、自死を選ぶだろうと思ったそうだ。この出典は覚えてない。『鶴見俊輔伝』(黒川創著、新潮社)で次のように述べている。
《『戦争中、自分に捕虜殺害の命令が下っていたら、それを拒み通すことなどできただろうか?』「この自問は、戦後70年間、彼の中に生きつづける。それを拒めたかは、
疑わしい。だからこそ、『敵を殺せ』と人に命じる国家という制度への憎しみと懐疑が、彼のなかで消えずに残る。状況のなかで考える-と、よく彼は言う。『状況』とは、歴史のただなかに身を置く、現在という場所のことだろう。」と黒川は言う。》(p540)
別のところで、鶴見氏はこう言っている。「自分も悪をなし得る存在である。悪をなしていないのは、たまたまの運の巡り合わせに過ぎない。」
・善悪は巡り合わせや耕衣の忌 ※25日は俳人永田耕衣の忌日、97歳
8/27:13日に早苗さんが入院した。軽い脳梗塞で手足などはあまり影響ないようだが言葉がスムーズに出ないようだ。1980年生誕だから道花と同じ45歳になる。高血圧の薬を飲んでいることや働きずくめの影響もあるかもしれない。父親が早く亡くなったこともあり心配だ。千鶴子さんから「アイリス」の引継ぎを計画していたようだが、しばらく延期になる。いろいろな意味で心配である。
・露の世や突然起こる何事も
8/28:永野栄さんの投稿から。〈今日、術後1年目のCT検査で大動脈の状態を確認してきました。解離部分はどこも膨らんできてなくて人工血管のつなぎ目も正常ということで次のCT検査は1年後。これから1年は生けそうです。 一年前に緊急搬送された道を自分で運転しながら病院に行くと何か生まれた場所に帰るような気持ちがわいてきます。あの時目を覚まさなかったらこの一年は無いわけで何をしたという一年ではないけど振り返れば愛おしい1年です。8月が誕生日、一歳になりました。運ばれし 病院懐かし 存命一年〉
・懐かしき病院への道秋うらら
8/29:私の身体の状況などもあるのか、このところ河野裕子歌集『蝉声』をよんでいる。『蝉声』は、2010年の夏に逝った歌人 河野裕子の最終歌集。この歌集には2009年からその死の前日までの歌約四〇〇首が収められているが、特に病床詠二二〇首余がひたひたと胸をうつ。私自身は河野裕子さんに関心を抱き続けてきたが、短歌については詠んだこともあまり知らないこともあり、ここでは印象に残ったば記録からみていく。として、いくつかの記録をブログに掲載した。
・しんしんと死ぬまで続く蝉の声
8/30:「穂村弘 / 朝⽇新聞掲載」より。《【河野裕子「歌集 蝉声」書評 〈私〉自身の肉体を離れた眼差し】〈髪も眉もまつげも脱けますよ それぢやあ私は何になるのか〉 抗癌剤の副作用を説明されたときの短歌だろう、と想像はつくのだが、ここにはそのような現実の枠組みを超えた衝撃が表現されている。「それぢやあ」の前の一字空きには、一瞬絶句した「私」の息遣いが織り込まれているようだ。 「私」が「私」でなくなってしまう不安のなかで、目の前の小さな日常はそのかけがえのなさを増す。〈川上の水は小さく光りをりそこまで歩かう日の暮れぬうち〉 歩いたからどうなる、ということはない。この歌には誰も出てこないし、何も起こらない。だが、不思議なことに、ほんのささやかな歩みの中に一生の時間と想いの全てが凝縮されているように思えるのだ。〈蝋燭のひとつ光にもの食へば家族のひとりづつの顔の奥ゆき〉 良くない譬えかもしれないが、最後の晩餐めいた臨場感が伝わってくる。家族で共にするこの一回の食事の特別さを「蝋燭のひとつ光」が強めている。〈渓谷の空より鷂が見てゐるは胡麻ひとつまみ程のバスを待つ人〉 ここには既に〈私〉自身の肉体を離れた眼差しの獲得があると思う。この直前には〈鷂(はいたか)だ、いや大鷹だらう室生寺にバス待つ四人に混じりて見上ぐ〉という歌があり、見上げるものと見下ろすものとの視点が鮮やかに切り替わっていることがわかる。〈八月に私は死ぬのか朝夕のわかちもわかぬ蝉の声降る〉 「八月に私は死ぬのか」という呟きが身に迫る。我々は自らの最期の季節を予め知ることも選ぶこともできない。河野裕子が亡くなったのは八月十二日の夜だった。
・人生の筈につかまり種を採る
8/31:戦後80年目ということもあり、今年は戦争・原爆の記録が盛んだったような気がする。改めて強く思うのは「戦争は人を殺すもの」ということ。特に現在は、戦争技術の驚異的な発達により、人々の姿・顔を見ることなく簡単に多くの市民を殺すことができる。国などの組織がもっともらしきも大義・目的を掲げようとも、参加している一人ひとりの人・兵士は自分は殺されないよう・死なないようにあるいは敵を殺すことに必死になる。戦争そのものは暴力的なものである。
・戦争は人を殺すものすさまじき