四季折々(日々彦の文芸欄)

日々彦の詩歌句ノート、随筆、講演、紀行文など

◎草花の生きかた「四季折々」(2021年4月4日~10日)

〇病とともに「四季折々」(2021年4月4日~10日)

(4日)○4/4NHK俳句。題「入学」。選者・片山由美子、ゲスト・ピアニストの反田恭平、司会は武井壮。今年度、新選者・片山由美子さんのスタート。

・入学の朝金色の玉子焼き 片山由美子

「入選句」

・入学の子と門くぐる母校かな 宮城県石巻市 阿部奈津美 特選一席

※自分が卒業した学校の門を今日は自分の子供と一緒にくぐる。子どもへの期待とともに自分の感慨をもよむ。下5の「母校かな」が効いている。

・愛犬を諭して帰す入学式 兵庫県神戸市 瀧澤久子 特選ニ席

※入学する日を境に子の生活ぶりが変る。そんな様子が愛犬を通して伝わってくる。

・入学のわが子の見えず武道館 東京都日野市 中嶋和臣 特選三席

・菜の花やふるさと行きの土讃線 愛知県名古屋市 山田由美子(自由題)

〇片山由美子の今年度のテーマは《見直し「俳句の常識」》。今回は「字余り」。

・つばめつばめ泥が好きなる燕かな 細見綾子

・クリスマスケーキ最後に買ひて家路へと ※上5は一気に読めて無理がない。

・子馬のこゑ野に柔かく滲みにけり 武井 壮 (添削) 滲みゆけり。(今を詠む)

「俳句で大事なのは韻律。耳で聞いて心地よければ五七五の定型を崩してもよい場合がある。音楽で言えば三連符みたいなもの。」(片山由美子)

 音楽の例として、ショパンの遺作「夜想曲嬰ハ短調」を反田さんが弾く (録音)。

・心身のペンキ塗り立て一年生

 

(5日)〇稲垣栄洋 (著), 三上修 (絵)『身近な雑草の愉快な生きかた』(草思社、 2003)を読む。

 十把一からげに「雑草」とのみ理解していたその世界の扉を本書は一つ一つ開けてくれる。私たちが身近にみることができる雑草の中から個性豊かな50種を取り上げて、著者が言うように、雑草たちの生き方と暮らしぶりをのぞき見る。

 雑草を観察すればするほど、雑草のことを知れば知るほど、彼らの生活ぶりが人間くさく感じられると著者はいう。種類や環境が異なればその生活ぶりは全く違う雑草一つ一つの個性的でユニークな生き方を擬人化し軽妙な筆致で、精密で生き生きと描かれた絵を添えて、綴っている。

「逆境は人を育て知恵を授ける」といわれるが、雑草は幾多の困難を乗り越えて生存の知恵を獲得し、驚異的な進化を遂げてきた。

「名もなき草」とひとくくりにされることの多い雑草だが、一つ一つの生き方は、実に個性的でユニークである。生命の躍動にあふれた雑草の生き方はどれもが輝きに満ちている。

 雑草ばかりではない。動物も、鳥も、昆虫も、肉眼では見えない微生物も、すべての生命あるものは、より強く生きたいというエネルギーをもっている。そしてすべての生命が強く生き抜こうと力の限りのエネルギーを振り絞っている。向上心のない生命はないのだ。と著者は述べる。

 なお、次のサイト「身近な雑草の愉快な生き方」で詳細な写真を閲覧できる。

 https://evolvingbook.com/wp-content/uploads/2018/03/weed.pdf

 ・季(とき)を知るいのち育む春の川

 

(6日)〇上記の本書から各雑草の特徴が現れているものをいくつか見ていく。

・【スミレ(菫)】:種子のまわりにエライオソームというアリの好きなゼリーが付いている。アリは種子を巣に持ち帰りゼリーを食べたあと巣の外に捨てる。これで種子は遠くまで運ばれる。蜜を吸いにやって来た昆虫にかならず花粉が付くように花の形を工夫しているうえ、昆虫が来なくなったら自家受粉する。

・【スズメノテッポウ(雀の鉄砲)】:スズメノテッポウには水田型と畑地型がある。環境の一定している水田型は大きな種子を自家受粉で少量残し、いつ耕されるかわからない畑地型は小さな種子を他家受粉でたくさん残す。大きな種子のほうが生存に有利。水田型は《その複雑な農事暦に適応し発達した。》

・【スギナ(杉菜)】:はじめは、ふつうの植物の花に相当する胞子茎の「ツクシ」で親しまれている。成長してスギナとなる。《スギナの仲間はおよそ三億年前の石炭紀に大繁栄した。当時はスギナに似た高さ数十メートルにもなる巨大な植物が、地上に密生して深い森を作っていた。この大森林を築いたスギナの祖先たちが長い年月を経て石炭となり、近代になって人間社会にエネルギー革命をもたらした》。その後、僅かに生き残ったスギナは、身の丈は低く地下のシェルターに根茎をめぐらせ、いくら取られても芽を出してくる。広島の原爆の跡地でも真っ先に緑の芽を出した。

・【スベリヒユ(滑莧)】:ふつうの植物は太陽の出ている昼間に光合成をおこなう。しかし乾燥地帯で昼間に気孔をあけると貴重な水分がどんどん蒸発してしまうため、スベリヒユはCAMとよばれる特別な光合成をおこなう。すなわち夜気孔をひらいて二酸化炭素を取り込み、昼間それを原料に光合成をおこなう。サボテンもCAMシステムを採用している。

・【コニシキソウ(小錦草)】 踏まれても踏まれても立ちあがる雑草は、わざと踏まれるような場所を選ぶことによって生存をはかる植物もいる。ほかの雑草が茂ることがないから日光も確保できるし、《コニシキソウは、最初から地面にひれ伏して生育しているから、踏まれても折れたり、倒れたりすることはないのだ。》

・【ツユクサ(露草)】:ツユクサの魅力は何といってもその色にある。《これだけ鮮やかな青い花は少ない。昔はこの花の汁で衣類を染めたという。冒頭の歌(朝(アシタ)咲き夕べは消ぬるつきくさの消ぬべき恋も我はするかも)のように古名を「つきくさ」と呼ぶのは色が付く「付き草」の意味なのだ。》

・【メヒシバ(女日芝):雑草の女王とも呼ばれる。人間の管理する畑は栄養も水もあるが、頻繁に刈られたり耕されたりする苛酷な環境である。しかしメヒシバはどのように傷みつけられてもひるまない。茎に節を持ったことで、横に伸びて節から根を張って陣地を拡大し、立上がって陣地を強化する。刈られても折られても節からまた生長してゆく。

・【マツヨイグサ(待宵草)】:夕暮れになるといっせいに咲きだし、《パラボラアンテナのように折り畳まれた花を、肉眼でもわかるスピードで連続写真のように開く》のだそうだ。マツヨイグサが夜開くのは鑑賞者をうっとりさせるためではなく、花の数の多い昼間を避け、花粉を運んでくれる昆虫を確保するためだと著者は言う。

・【ヨモギ(蓬)】:《一般に植物は風で花粉を運ぶ風媒花から、虫に花粉を運ばせる虫媒花へ進化したといわれている。》ところがかつてヨモギの住んでいた場所は乾燥地帯で、風は吹いていても虫はいなかったので、また風媒花に進化しなおしたという。ヨモギの葉裏は白く見えるほど毛が密生している。それは気孔から水分が逃げていくのを防ぐためだ。《草餅にヨモギを入れるのは、本来は香りや色づけをするためではなく、この毛が絡み合って餅に粘り気を出すからである。》

 参照:独立行政法人農業環境技術研究所「農業と環境 NO74 (2006.6)」

・ほどほどに生きてゆきたし菫草

 

(7日)○雑草考

 雑草とは、人間の生活範囲に人間の意図にかかわらず自然に繁殖する植物のことである。

 研究者たちによってある程度解明されているとは思うが、名前やその特徴も定かでない、草もまだまだあるだろう。

 人間による石器時代からの自然の大破壊の進行に対して、植物の側からも、破壊された新しい環境にうまく適合するものが進化し現れてきた。

  昔から、人は野生植物の中から有用なものを探し出し育てるようになる。

 選ばれたものは作物へ。選ばれなかった草は、除去されながらも耕作の間隙をぬっては生き続ける。それが人から見れば雑草となる。

 それらは、種が落ちた場所が、日陰であれ、瘦せ地であれ、そこに根を伸ばして生きていく。日陰なら日陰、痩せ地なら痩せ地でも生きてゆけるように、夫々が弛まず進化・変化を続けて「今を生きていく」

  他家受粉が叶わなければ自家受粉を行い、自家受粉も叶わなければ自生する。この強かさ、しなやかさ、順応性を覚える。

 ・草萌やそれぞれ今を生きていく

 

(8日)○好奇心あふれた行動

 2歳半過ぎの孫の好奇心あふれた行動は微笑ましい。

 マンションの結構広い庭に、私はほとんど注意を払わないが、孫にとっては、ワンダーランドで、蟻やダンゴムシなど虫たちの動き、面白い石やへんてこなものをしばらく眺めていじりまわしている。

 これはどうなっているのだろうと、不思議で面白いらしい。

  レイチェル・カーソン著『センス・オブ・ワンダー』上遠恵子訳、森本二太郎写真(新潮社、1996)に次の言葉がある。

〈「「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。

 子どもたちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生みだす種子だとしたら、さまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。

 美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。そのようにして見つけだした知識は、しっかりと身につきます。

 消化する能力がまだそなわっていない子どもに、事実をうのみにさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるような道を切りひらいてやることのほうがどんなにたいせつであるかわかりません。」(p24~26)〉

  孫をみていてもそう思うし、73歳の自分にとっても大事にしたいと考えている。

・老耕人鍬あつかふ手美しや

 

(9日)〇天然界の奏でる色と人間界が作り出す色➀

 この時期は桜見物など各所に出かけていたが、コロナや身体の状態で昨年2月から一年以上居宅の近くを散策している。

 雑草関連の本を読んだこともあり、わたしの歩行状態はふらつきが激しく、気を付けながら道端の草花などを鑑賞して面白い。

 居宅の近辺に霧島つつじ、久留米ツツジの鮮やかな赤が輝きを増し、趣のある眺めとなっている。

 正岡子規の随筆『赤』の花々について書いた文章がある。

「美しい現象の最要素は色である。色は百種も千種もあるけれど、概して天然界の色はつややかにうつくしく、空の緑、葉の緑、花の紅白紫黄の明るく愉快なるに反して、人間界の色はくすんで曇って居る。人間の製造した衣服、住居、器具などは皆暗く寒い色であって、何だか罪悪を包蔵して居るやうに思われる。併し天然の色でも其中で最も必要なのは赤である。赤色の無い天然の色は如何に美しくも活動する事が無い。」

 この時点での子規の見方はそれとして、たしかに天然界の奏でる色と人間界が作り出す色は、根本的に異なるような気がする。

 色が大きな比重をしめるだろう絵画の専門家でも、その人独自の色の世界を作り出すことに研究を重ねるだろうし、器具を用いることによる、より写実的であろう写真や映画でも、デジタル化などにより、ある種の限界を抱えながら様々な工夫を重ねているだろう。いいとか悪いとか、現実的であるとかそうでないとかの判断はつけられないが、決定的に違うと思う。

 ・盛りなる躑躅に魅かれてきちょくと

 

(10日)〇天然界の奏でる色と人間界が作り出す色②

 わたしが感じるのは、天然界のもの特に花々のなかには、そのもののなかに、生き生きとしたつややかさを宿しているものが、辺りのものと溶け合って独特のものを醸し出しているのではないか。それに対して、人間界の作り出すものは、たとえ精巧な器具を用いたとしても、どこまでも人為的なものがかかわり作り出す色で、一葉の絵柄に収められるものではないのだろう。花々に限らず、海に差し込む光、澄み切った空に漂う雲、草木、あるいは人の顔色や犬の姿など、ハッとするような出会いがあったときに、そのようなことを感じる。

 ※坪内稔典は、〈子規の随筆「赤」「吾幼時の美感」「啼血始末」を引きながら、これらに通底する子規の赤色に対する執着を指摘し、次のように述べる。子規が好きだという赤色は、以上のように見てくると、子規の〝生の深処〟と重なってくる。天然の赤色、草花の赤色は、暗い、澱んだ赤色を背後に持っていたのである。写生に執着し、天然の世界へ視線を広げることで、子規は自らのかかえている暗い深処に耐えていた。〉(「鶏頭の句」(『正岡子規』俳句研究社、1976より)

 ・海坂に春虹かかり空碧し