四季折々(日々彦の文芸欄)

日々彦の詩歌句ノート、随筆、講演、紀行文など

◎好悪と正邪のすり替え「四季折々」(2021年3月14日~20日)

〇病とともに「四季折々」(2021年3月14日~20日)

(14日)〇友人S・Sさんからの手紙。

 昨年、静岡から広島県呉市に移住したSさんから便りがあった。移住後の近況報告と、息子のS太一家の中國新聞の記事が添えられていた。

 S太一家とは何度か交流していて、子どもたちの成長ぶりや記事の内容にほのぼのとしたものを感じた。

 「記事の紹介」

▼S太一家が、家族でつくる小さな循環【持続可能な暮らしのヒント】中國新聞(3月9日)くらし欄で紹介された。

  S太一家は、2011年3月東京電力福島第一原発から30キロの自宅から自主避難して、9月に呉市安浦町に移住。電力への依存をなるべく減らそうと、食べ物も日用品もできる範囲で手作りする小さな循環型の生活を目指す。長男(15)、次男(11)、長女(8)と5人暮らし。自宅近くの田畑で果樹60本と野菜や穀物約40種類を育てながら地域の障害者事業所で夫婦とも月に数日働く。

 2018年の西日本豪雨で家に続く道が土砂でふさがれ、2年ほど町内の避難先で暮らした。2度の被災体験から便利な暮らしのもろさを実感し、身近にある物を使って身軽に生きたいとの思いを強くしている。

・ありもので暮らしの工夫水温む

 

(15日)〇新型コロナウイルスのワクチンに思う。

 最近の話題として、ワクチンの入荷・用意と、その接種対象者のプランが提示されている。すでに医療従事者等への接種が順次行われている。

 厚生省によると接種を行う期間は、令和3年2月17日から令和4年2月末までの予定。最初は、医療従事者等への接種が順次行われ、その後高齢者、基礎疾患を有する方等の順に接種を進めていく見込みという。

 なお、高齢者への接種は、一部の市町村で4月12日に開始される見込み。当初は実施する市町村や接種する人数が限られており、順次拡大していくらしい。

  年齢や体の状態から、わたしの接種順位度はかなり高いと思うが、供給量が限られた現状では、今のところ受けるつもりはない。別にワクチン接種を否定しているわけではなく、その有効性は認識しているつもりだ。

 肺機能が極度に悪いわたしは新型コロナに嫌な感じを持っているが、対策としては、まず食生活をはじめ日々の暮らしで自己免疫を高めておくこと、手指消毒・マスク・三密を避けるなど必要最小限のことはして、出来るだけ医療関係の世話にはならないようにと思っている。

 今話題になっているワクチンの有効性や副反応などが、もうひとつわからないこともある。だが、自分が罹患しないだけでなく他への影響をも考えると、医療従事者の心配は当然と思う。自分もその現場にいたら、おそらく受けようと思うかもしれない。

・遠足や手指消毒の備へあり

 

(16日)〇岩田健太郎『予防接種は「効く」のか? ワクチン嫌いを考える』を読む。➀

 内容は、なぜ、ワクチンは嫌われるのか。開発と副作用による事故をめぐる歴史も振り返りつつ、今の日本の医療政策、メディア、そして医療の受け手側の問題点などを一つ一つ明らかにしていく。

 本書の基底音は、ワクチンが嫌いなのは個人的な感情だけれども、それは好き嫌いの問題であって、ワクチンが有効であるとか、正しいとか、おかしなものという問題ではないということ。

 《「科学の核心部では、一見すると矛盾するかに見える二つの姿勢がバランスをとっている。ひとつは、どれほど奇妙だったり直視に反していたりしても、新しいアイデアには心を開いておくこと。そしてもうひとつは古いか新しいかによらず、どんなアイデアも懐疑的に厳しく吟味することだ。そうすることで、深い真実を深いナンセンスからより分けるのである。

 科学者はいつでも「現在の常識」を捨てる覚悟を持っていなければなりません。そうしなければ医学の進歩はあり得ないですから。》

  本書に一環として流れているのは科学者としての矜持で、ワクチンについてもその歴史についても、間違ったこと、おかしなことはきちんと分析、整理している一方、その有効性や及ぼした影響を簡潔に提示している。

 そして、予防接種が現代医療の最大の功績であることは「常識」としながら、『現在の「常識」は将来の「常識」を保証しません。』と述べている。

・野遊びやその距離保ち遠会釈

 

(17日)〇岩田健太郎『予防接種は「効く」のか? ワクチン嫌いを考える』を読む。②

 《予防接種を行う価値のあるワクチンというのは、この「予防接種をせずに病気に苦しむ人」と「予防接種を打って副作用で苦しむ人」とを比較し、前者が後者よりも大きい場合をいうのです。》 

 作為過誤と不作為過誤のジレンマ、つまり、予防接種をしたことで副反応が発生した人とワクチン非接種で感染症に罹った人の割合を見ると、大きな影響を及ぼす疾病や症状に対してはかなりの差があり、予防接種の有効性は歴史的に証明されている。

 《実際には99%以上の方はワクチンにおける被害を受けていないのです。ほとんどの場合は、うまくいっているのです。そのような事業をやっていて、まれにイレギュラーな事態が起きた時にそれを激しく糾弾する、という世界観を、僕は是として欲しくありません。》 

 これについては、マスコミなどの弊害をあげている。マスコミの多くは特異なケースをあげがちで、被害者・加害者の図式による責任論を強調し、それに便乗して、殊更問題視する風潮もあり、そのことの本質をきちんと分析することよりも社会的な話題になる事があり、影響される人も出てくる。こういう現象はワクチンに限ったことではないが。

 著者は次のことも述べている。

《僕は、ワクチンの副作用に苦しんだ人はわずかなマイノリティに過ぎないのだから気にしなくてもよい、と主張しているわけでは決してありません。それどころか、このような理不尽な苦痛を被った人たちこそ、僕らは十分にケアする義務があると強く思っています。》

 どんなことにもリスクはあり、ゼロリスク希求症候群はヒステリックな議論になってしまいがちになる。リスクとベネフィット(利益)をリアルにクールに議論し無くてはならないと著者はいう。

 そして、「好悪と正邪のすり替え」には注意しないといけないという。

《「ワクチン嫌い」の言説は、好き嫌いから生じていると僕は思います。最初は好き嫌いから始まり、そして「後付けで」そのことに都合の良いデータをくっつけ、科学的言説であるかのように粉飾します。都合の悪いデータは罵倒するか、黙殺します。》

・着眼大局着手小局春マスク

 

(18日)〇「好き・嫌い」と「正しい・間違い」

 上記の著を読んで、とても考えさせられたし、つぎのことを思った。 

 私たちの言動を大きく左右する、「よい・わるい」、「正しい・間違い」の判断も、よく調べていくとその基準は時代や地域によって全く違った捉え方になったりする。

 「正しい」というのは「それが自分にとって心地いい」かどうかと言い換えてもいいぐらいだと思う。その方が精神的には安定するから、それを無意識に求めてしまう。

 自分が「心地よく」感じて「好感」を覚えるものを、「正しい」と判断しやすい。

 普段の生活の中で、だれかに対して「それは間違っているよ」と注意したりする。その「間違っている」を、「おれはその態度が嫌いだ」と言い換えてもいい場合もある。「正しいよ」と言ったりするのも、「俺はその思い方が好きだ」と言っている場合が多い。

 「正しい・間違い」については、ワクチンに限らないが、ほとんど無意識的に、個人的なあるいは社会的な意味での「好悪」のバランスの問題になっているときも多いのではないだろうか。

 ・一すじの道に出りけり桃の花

 

(19日)〇それぞれの固定観念としての健康感➀

 健康は,一人ひとりの人格に応じて定義され、一人ひとり違ったやりかたで求められる。

  固定観念は、「俺は絶対にこう思う」というのもあるが、時代や環境に影響された思い込みの場合も少なからずある。無意識に使っているので、固定観念だと思っていないことが多いが。

 食をはじめ生活習慣、考え方のパターン、心の持ち方など、子細に見ていくと無意識な固定観念で見ているのではないか思うこともたびたびある。朝食を取らないことをかまびすしく言うなどはその例だと思っている。

 イバン・イリイチの『生きる思想』「管理された健康に抗して」(藤原書店、1999)に、次のような文章がある。

〈社会制度が進歩したかしないかということは、まず第一につぎのような点においてはかられます。つまり、そうした社会制度の進歩によって、個人や第一次集団(としての家族)が自力でおこなう活動によってみずからの欲求(ニーズ)をみたす能力を増大させたかどうか、ということです。わたしが「自力でおこなう活動」と呼ぶのは、そうした活動によって、人びとが、みずからの欲求(ニーズ)を定義するような活動、つまり、そうした欲求(ニーズ)をみたす価値をつくりだす過程そのものであるような活動のことです。〉

 家族という単位から、ある種の考え方による集団、コミュニティ、国に至るまで共同体を見ていくとき、一つの目安として、幼い子どもたちやお年寄りなど弱い立場にある人たちが、いかに生き生きと暮らしているかどうかによってはかられると思う。

 ・待つことのいつか祈りへ夜の朧

 

(20日)〇それぞれの固定観念としての健康感②

「管理された健康に抗して」に、次のような文章がある。

〈一つの立場では、健康とは、基本的には、操作的に検証される体調のよさであり、それは、もっぱら専門家の手で推進され、養護され、管理されるものです。いまひとつの立場では、健康とは、基本的には、一人ひとりの人格に応じて定義され、一人ひとり違ったしかたで求められるものです。そのような健康は、商品を入手する権利だけでなく、使用=価値をつくり出す自由も同時に政治的に保護されているところで花開くものなのです。(『生きる思想』「管理された健康に抗して」藤原書店、1999より)〉

  健康に限らず、生き方、考え方は百人百様それぞれ異なっていることは当然で、「食」をはじめ生活習慣もいろいろな影響を受けながら、同じような傾向はあるにしても、一人ひとり違った方式を取り入れていると思う。

  どこまでも自分はこう考えている、こういうやり方をしているという、そのことをグッと基本に据えながら、人に勧めたり、アドバイスをしたり、注意したりするのは大いに結構で参考にもなる。大きく見直す契機にもなる。だが、基本的には本人自らが見出していくものだろう。  

・時疫(ときのえ)に心ゆくまで朝寝かな