四季折々(日々彦の文芸欄)

日々彦の詩歌句ノート、随筆、講演、紀行文など

◎ “良心を束ねて河となす”「四季折々」(2021年2月14日~20日)

〇病とともに「四季折々」(2021年2月14日~20日)

(14日) 〇一人ひとりに即して見ていくことの大切さ。

  13日午後11時ごろ、福島県沖を震源とする最大震度6強(福島県・宮城県)の地震があった。福島の友人によると、大事にはならなかったようだが、被害にあわれた方もいることと思う。今後1週間程度は余震が続くそうだ。

 こういう時、被害状況や死傷者の数で、大したことではなかったと言いがちになるが、10年以上経過してもこのような余震があるのは、精神的な余震を抱えている方もいるだろう。一人ひとりに即して見ていくことの大切さを思う。

 26年前の阪神淡路大震災でも、そのことがきっかけに、いまだに影響をこうむっている話も聞く。

・それぞれの光の春を待ちにけり

 

(15日) 〇BS1スペシャル「消えた窯元 10年の軌跡」を観る。

 昨日その関連の放送を見た。

〈 番組内容:東京電力福島第一原発から10キロにある山間の小さな集落、浪江町大字大堀。原発事故から10年たった今でも放射線量が高く住民が暮らすことはできない。原発事故の前、ここは300年以上の歴史を持つ陶芸の里だった。23軒の窯元が東北を代表する伝統工芸品、大堀相馬焼を生業に暮らしていた。肩を寄せ合い伝統文化を守ってきた人々。彼らはどこに行ったのか。10年間の軌跡を追う。〉

《ディレクター 後藤秀典:「ついさっきまで、そこに窯元が座り、ろくろを回していた。その横で、孫が粘土をこね恐竜を作っていた。奥さんは器に馬の絵をかいていた。」そんな風景がそのまま残っていた。人々の暮らしが奪われた瞬間が、大堀にはそのまま残っていた。

 実は、そんな風景は、原発事故直後の相双地区では、当たり前にあった。ある日、突然町中から人が消える、その風景が現場に残されていたし、テレビでもたびたび報道された。

 2017年、潮目が変わる。原発立地の双葉町、大熊町をはじめ周辺自治体の一部地域が次々と避難解除された。それに前後して、避難解除地区では除染が行われ多くの住宅が解体されていった。きれいに整地された土地には、太陽光パネルが敷き詰められていった。「人々の暮らしが奪われた瞬間」なんてなかったような風景となった。取り残された帰還困難区域に関する報道もほとんどなくなった。本当は、浪江町の半分以上は帰還困難区域のままなのだが。

 この大堀の風景を何としても残したい、というのが、最初に思ったことだ。そこから取材が始まった。大堀で時間は、10年間止まったままだった。しかし、そこから消えた人々を訪ねると、対照的に激しく動き回り、あまりに厳しい現実に直面していた。》

 この人災は、放射線に限らず長年に亘って人々の暮らしや心に影響を与え続けるのだろう。

・地震(なえ)あとの微かに動く春の土

 

(16日)〇風花が舞っていた。

 風花は、晴天時に雪が風に舞うようにちらちらと降ること。あるいは山などに降り積もった雪が風によって飛ばされ、小雪がちらつく現象のこと。俳句では晩冬の季語だが居宅の北側は六甲の山並みが見え、南は東神戸港に広がっていて、この時期、時折風花があり朝方舞っていた。

 大地震のあとで、北陸、東日本島では、大雨や雪による大きな影響を受けているようだが、神戸では風は少し強いが、晴れ渡った青空が広がっていた。風花がその青さを際立たせているようにも感じる。

 風花は素敵な響きがあり、印象句をあげる。

「風花を美しと見て憂しと見て」(星野立子)「風花の舞ひたつ峡に月たまる」(中勘助)

「風花や胸にはとはの摩擦音」(石田波郷)※「胸にはとはの」は「胸には永遠の」の意。

・風花やはかなく消えて青残る

 

(17日)〇“良心を束ねて河となす”(中村哲のことばから)①

 昨年暮に放送され、再放送があったNスぺ「良心を束ねて河となす 〜医師・中村哲 73年の軌跡〜」を再度観る。

 番組から、日々触れる人々や自然を慈しみ、そこから醸し出される思いや言動が、あのような偉大なことを成し遂げたことにつながったことが、伝わってきた。

  “良心を束ねて河となす”

 中村は35年にわたる現地での活動の間、自らの思いを書き残していた。

《我々はあらゆる立場を超えて存在する良心を集めて氷河となし、確実に困難を打ち砕き、かつ何かを築いてゆく者でありたいと心底願っている。》

 特に印象残ったことを、ブログ・日々彦「ひこばえの記」に掲載した。

 https://masahiko.hatenablog.com/

 ・雪解風良心束ね河となす

 

(17日)〇“良心を束ねて河となす”(中村哲のことばから)②

 中村は長年の活動の中で現地に人たちから責められたり裏切られたりしたことが何度もあったという。それでもこう言っていた。

 《(現地にも行ったことがある看護師の)藤田千代子さん「『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』もうまさしくそのままで、どんなに現地の人が、一緒に働いている人が不正をする、用水路現場で砂を掛けられる、先生の車が倒されるとか、(しばし絶句、手で顔を覆いながら)ん、本当に私からすると、そんなことをされるならやめた方がいい、私なんかカッとなって・・・でも、先生は必ずその原因を知ろうとされる、なぜ自分がその様な目にあうのか、災い(の原因)は自分の側にあって、原因を探して、じゃ何が必要かと、それを実行する方だった」》

《立派な動機があってそこに赴き、 志と信念を貫いて現在に至ったというのが分かりやすいですけれども、残念ながら、私にはこれといった信念はありません。自分の気に入ったところで、 自分のできる範囲で、人々と楽しい気持ちで暮らす方がいい。それ以上の望みもなかったし、今もありません。》

・災いの元をたずねて凍ゆるむ

 

(19日)〇坪内 稔典『季語集』 (岩波新書、2006)を読む➀

 俳句・短歌の実作者であり研究者である坪内氏が、独自に選んだ300の季語についてのミニエッセイ。

 著者が新しい季語として提案しているものがいろいろあり、日本語の持つ深みを感じさせてくれる。

 はじめの「季語を楽しむ」に次のようなことが書いてある。

《季節は普通、四季(春、夏、秋、冬)と考えるが、古代では民俗学的には農業生活上から二季(正月から盆、盆から正月)があったそうだ。四季は中国から来た新しい区切りで、広く普及するのは平安時代からだとされている。古今和歌集から歌を四季に分け、その四季観は現代にいたるまで基礎的なものとして受け継がれている。四季とは一つのめがねのような見方だ。このめがねを通して自然界が四季に区切られる。

  中世の連歌、江戸時代の俳句の季語、今日の歳時記に至る季語を確立したのは古今和歌集で、この四季の考えを受け入れて時候、天文、地理、生活、行事、動物、植物などを四季に分類したのが季語で、これは一つの約束である。

 この季語の約束を本意という。言葉の持つイメージを決めるもの。例えば「春風」は「そよそよと優しく吹く」というのが本意。季語の持つイメージを別の言葉と組み合わせるときに微妙な本意のずれを楽しむのが季語の楽しみでもあり、自分の気持ちの新しい表情を表現するのが季語の本意のずれの目的と著者は言う。》

 私たちは自然を、ある言葉や観念・概念を通してはじめて感受できるというのである。自然や宇宙を言葉で表現するのではなく、言葉で自然や宇宙を構築するのである。

 ・季語といふめがねをかけてかげろへる

 

(20日)〇坪内 稔典『季語集』を読む②

  作者のその季語に対する思いが、各作品などを紹介しながら、楽しく書き込まれている。

・季語「光の春」では、ロシアを訪問した気象キャスターの倉嶋厚の言葉を紹介している。(ロシア語)ベスナー・スベータは「光の春」の意。「日脚が伸びて空が明るくなり、屋根の雪から最初の水滴が日に輝いて落ちる、それが『光の春』のはじまりだ」(倉嶋厚『暮らしの気象学』)。「春光に触れなんとして乗り換えす」(対馬康子)

・季語「春の土」では、「春は空からそうして土から微(かす)かに動く」(長塚節『土』)の紹介から始まり、漱石はいう。『土』が面白いから読めと娘に勧めるのではない。「苦しいから読めといふのだと告げたい」。「春の土踏むはじめてのベビー靴」(山田弘子)

・季語「春の匂い」では、前年から「一草庵」を結んでいた五九歳の種田山頭火の昭和15年の日記から「天も地も私もうらゝか、(略)まったく春! 障子をあけはなって春を呼吸する」。そして知人と参詣し露店で桜餅を食べた。「うまかった、春の匂ひがする!」

「おちついて死ねさうな草萌ゆる」(山頭火)「腸(はらわた)に春滴るや粥の味」(漱石)

・ うまかった春の匂ひの桜餅