四季折々(日々彦の文芸欄)

日々彦の詩歌句ノート、随筆、講演、紀行文など

◎心をもつ者として(「「四季折々」2020年3月22日~28日)

〇病とともに(「四季折々」2020年3月22日~28日)

(22日)〇大相撲春場所無事に終わる。

 新型コロナウイルス感染拡大防止のため史上初の無観客開催となった異例の場所を無事に終えた。

 場所中に力士は毎日朝と夜に体温測定をしたうえで、37度5分以上の発熱が2日連続したら理由を問わず休場。さらに発熱が続けばPCR検査を受け、1人でも感染が確認された時点で中止という高いハードルを設けた。そのため、ありとあらゆる感染防止対策が取られていた。

  そして千秋楽全取組終了後に幕内力士と親方衆が土俵脇に集合し、日本相撲協会の八角理事長が挨拶。時折、言葉を詰まらせながら、まずは相撲ファンからの応援、関係者の尽力に感謝の意を伝えると、こう続けた。

 「この3月場所を開催するにあたっては一つの信念がありましました。万来、相撲は世の中の平安を祈願するために行われてまいりました。力士の体は健康な体の象徴とされ四股を踏み、相撲を取る。その所作は、およそ1500年前から先人によって脈々と受け継がれてまいりました。今場所は過酷な状況下の中、皆さまのご声援を心で感じながら立派に土俵を勤め上げてくれました全力士、そして、全協会員を誇りに思います。われわれはこれからも伝統文化を継承し、100年先も愛される国技、大相撲を目指してまいります。」

  通り一遍の挨拶と違って、理事長の並みならぬ意思を込めた心意気に、大仰な感もあるが、少なからずの大相撲愛好家の納得するものであっただろう。

  また、表彰式がコンパクトで、普段テレビではお目にかかれない「出世力士手打式」と「神送りの儀式」が見ることができたのは楽しかった。

 相撲は好きで、妻とよく見ている。今場所もテレビで見る限りは面白い。

 おそらく力士は観客の声援がない戸惑いや外出が一切できないことなど強度の緊張が続いただろう。だが、本番の取り組みとなれば力一杯やるだけだ。

  経済的にはいろいろ有るだろうが、概して真剣勝負のスポーツ鑑賞は惹きつけるものがあり、新型コロナウイルスが、まだまだ収束がつかない状況で、いろいろ参考になるような気がしている。

・春場所や見えない敵と戦えり

 

(23日)〇中日スポーツの「北の富士コラム」について

 本場所とともに翌日の中日スポーツの「北の富士コラム」を楽しみにしている。

 北の富士はユーモアセンスもあり、各取組み一番の見方も的確で、なかなかな文章で楽しく、時折ネットから見るようにしている。

 「北の富士コラムから」

(12日)〈白鵬と正代戦で大番狂わせが起こった。立ち合いから張り手を繰り出す白鵬。いつものことだが、これで正代の気力を奪うはずが、この日の正代は張られても顔を上げないで、突っ張りで応戦する。このあたりから白鵬は平常心を失ったようだ。

 左右から張り手にこだわる。明らかに平常心を失っている。異常に張り手にこだわる白鵬。反対に正代は、冷静に相手の脇の甘さをついて、もろ差しとなった。

 長身の正代に2本差され、白鵬の体が完全に伸びきっている。万全の体勢から正代が寄り切って、白鵬に2敗目の土をつけた。

 それにしても、白鵬は完全に自分を見失っていたのではないか。時代劇ではないが、まさに「殿ご乱心」と言うしかない。自分の思うように事が運ばず、カーッとなってしまったようだ。優勝43回の大横綱ともあろう君が、格下の相手にわれを忘れて大暴れは見苦しい限りである。猛省を促したいものである。

(13日)〈炎鵬は13日目も物言いがつく相撲となったが、取り直しも十分に動き回って若手のホープ、大栄翔の勝ち越しに待ったをかけた。今場所、すでに負け越しが決まったが、最後まで決して勝負をあきらめない姿勢は実に立派なものだ。まだ若いのに、人気におぼれることもなく、頑張る姿はテレビで観戦されている人たちに、微力だが勇気を与えることになっていただけると幸甚であります。

 まるで理事長あいさつみたいになったが、今場所は全員、良く頑張っていると思う。あと2日。手に汗する展開になることを祈りつつ、私は今から飯を食います。例の友人の店から焼き肉定食と辛いみそスープとキムチ、ノンアルコールビールが1本。テレビを見ながら1人ディナーを楽しみます。それでは英語でグッドナイト、シーユーアゲイン。(元横綱)〉

(15日)〈無事千秋楽を迎えることができて、今はホーッとし、そして疲れがドーッと出てきている。今こうして原稿を書いているが、早く済ませてビールで乾杯でもしたい気持ちであります。 28日で78歳になります。お年寄りが毎日コロナに感染し、亡くなられています。その都度、今度は俺の番かと結構、気を使う毎日でした。それでも何とか仕事を全うできたので満足です。23日に帰京します。来年は果たして来られるでしょうか。おしまいに今できた一句。・ハッケヨイ 戦い終えて 春を知り(勝昭)

 今年は大阪城の桜など、すっかり忘れていました。お粗末。(元横綱)〉

・千秋楽戦い終えて飛花落花

 

(24日)〇「口笛の聖地」で汗かき、息切れ… 美しい音色の秘訣は

 山田佳奈による朝日新聞の記事で、朝日Digital2020年3月20日で見ることができる。

   https://www.asahi.com/articles/ASN3M3SLLN34PTFC001.html

 記事は大東市が「口笛の聖地」と言われていることがよく分かる内容。

 次のことに感慨を覚えた。。

・大阪の一つの市(大東市)が「口笛の聖地」と言われるようになった。

・そこの学習センタ―で口笛カフェが開催され、そこに私たちが参加している。

・その地域で白井いさおさんの口笛がクローズアップされることになった巡り合わせ。

 ・生きるとは巡り合わせや春の雪

 

(25日)〇恩蔵絢子『脳科学者の母が、認知症になる:記憶を失うと、その人は“その人"でなくなるのか?」を読む。

 内容は、記憶を失っていく母親の日常生活を2年半にわたり記録。アルツハイマー病になっても失われることのない脳の力を、脳科学者として、娘として考察していく。

「感情こそ知性である」と題された終章が味わい深い。

〈最初は、私も「母が母でなくなってしまった」と落ち込んでいたのだが、今は少し違う気持ちでいる。

「何かが効率的にできる」「論理的に物事が考えられる」「誰かのために何かがうまく実行できる」という能力だけが、母らしさを形成してわけではないのだ。「誰かのために動きたい」という感情は、いまでも変わらず残っていることに注目しなくてはならない。-------

 母は、私たちに対してたくさんの愛情を変わらずに持っている。認知機能の作る「その人らしさ」の他に感情の作る「その人らしさ」があるのである。

 感情は、生まれつきの個性であり、また、認知機能と同じように、その人の人生経験によって発達してきた能力であり、いまだに発達しつづけている能力である。

 アルツハイマー病を持つ人々は、体を通して、新しいことを学び続けることができる。彼らの経験は、意識的に取り出せなくても、体には積もっている。また彼らは、この病気になって「人生で初めて味わう悲しみ」も感じている。我が家について言えば、そのような悲しみとともに、これほど家族が一丸となったことはなかったのだし、母も「こうなって初めて感じた喜び」があることだろう。----最後まで「初めてのこと」は続くのである。

 できなくなっていくことと同時に、生物として大事な「感情」というシステムを使って、その人がどう生きるか、私はそれを見守っていこうと思う。結局母は生涯、母なのだ。〉

  おそらくこの先、戸惑いや困難が増してくると思われる。それに向かっていくのにこの視点を大事に思う。

 これについて、『ALL REVIEWS』に掲載されている、養老孟司氏による書評で、この著者を温かく見ているのも印象に残った。

 https://allreviews.jp/review/2726

 〈人生には負の面がかならずあって、それを想像すると極端になりやすい。その治療はじつは簡単で、正面から向き合えばいいのである。著者は脳科学を武器として母親の認知症に向き合った。健気な戦いだと思う。この戦いには勝ち負けはない。ただ一つ、そこで得られるものがある。それは自分が成熟することである。その意味で人生は一つの作品である。著者という作品が完成に近づくことを期待する。〉

 ・のどけしや死ぬまで続く初のこと

 

(26日)〇友人の認知症

 認知症に関して、家族や仕事でいろいろな方に携わり、現在も親しくしている友人がその渦中にあり、そのご家族から連絡でその深刻さを知るだけで、その大変さが伝わってくる。

 その奥さんから〈18日、K市の施設に転居した〉とのはがきが届いた。

 いろいろなことを忘却し、想像を越えているそうである。

 友人は私より年配だが、知的な教養のある方で、社会的にご活躍し、近来は「心の電話相談」に関わっていた。また、一緒の仕事もしていた間柄で、よく話もし、神戸にも遊びにいらしたこともある。

 理性より感情の方が、ずっと長い過去から人間が培っていたものであり、老いて認知症になって理性がうすれても感情は強く残る。また、脳の中では感情の方が、いわゆる理性より安定していて、病気でも壊れにくい。人は感情の動物であり、感情がなければ、生きるための力が欠けると言われている。

 認知症に限らず高次脳障害など、誰しも起こる可能性のある脳の病状により「その人らしさ」がどのようになっていくのだろうか? 友人の、感情はどんなだろうか?

 ・人生は一つの作品春星も

 

(27日)〇孫の成長記録(1歳5ヶ月)「〜として扱う」

 1歳5か月になると、いろいろな面で能動的になる。

 しきりに声を出し、そのことばは、よく分からないときもあるが、確かめながら身につけていくようだ。また、何か働きかけるようになり、こちらでこうしてほしいというときちんと応えてくれることが多くなるし、応えようとする意欲も感じる。

  昼間は孫を連れて主に公園にいく。娘が行けないときは私たちが連れて行く。部屋にいる時は靴下を嫌がり素足だが、出かけるとき、靴下と靴を履く。

 ある時、妻が履かせていたところ、娘が自分でやれるようにしていると言う。

 たどたどしいし時間はかかるが、娘の適度な声掛けで、結構やれるようになっている。

 「たどたどしい」と見るのは、こちらの尺度であり、孫は精一杯体でやろうとして覚えようとしている。そこを大事にしながら、声をかけたり手を添えたりするだけだ。

  この時期になると、肉体的には幼児として扱うが、精神的には一個の人格として扱うことが必要だなと思う。娘親子を見ていると、コミュニケーションをとりながら心の交流をしているようだ。

  下條信輔『まなざしの誕生 赤ちゃん学革命』で、親が子を「理解する存在として」=「理解できる存在として」、あるいは「語りかける相手として」=「語りかけてくる相手として」扱うことの大切さを述べている。

 また、「心をもつ者」として扱われることによって、またそのことだけによって、心は発生し成長するのだ。ともいう。

  それにしても動きが活発になるにつれて、転んだりぶつかったりするのも衝動も大きくなる。少し前まではナデナデしながら「痛いの飛んでいけ」ですぐに泣き止んだが、最近妻はグット強く抱きしめながら頭を摩る。なき声も大きいが、それでも切り替えが早い。

・心をもつ者としてみるうららかに

 

(28日)〇下條信輔『まなざしの誕生』について二つの記録

 ※『まなざしの誕生 赤ちゃん学革命 新装版(新曜社、2006)

・鷲田清一「折々のことば」(朝日新聞2016年7月14日)

「心をもつ者」として扱われることによって、またそのことだけによって、心は発生し成長するのだ。下條信輔:乳児に、ペットに、「心」はあるか? この問いは間違っていると認知心理学者は言う。私が語りかけ、また私に語りかけてくれる者として相手を扱うことの結果として、「心」は生まれてくる。だから「心」は脳における神経生理的な過程として分析されるよりも先に、交わりという場面で問われねばならないと。

・池谷裕二の書評(読売新聞)

  本書は発達心理学に軸足をおいています。つまり、乳幼児がどう成長してゆくかが、表面上の主題です。しかし、扱う対象は奥深く、知能や心など、人間原理を根源から抉ってゆきます。つまり本書は赤ちゃん学を装った人間学全般なのです。ヒトの心の実態を知るためには、こころの発生現場をおさえなくてはならない――これが著者の狙いです。では、こころはどのように芽生えるのでしょうか。最終章に用意された予想外な答えに向かって読者を引っ張り込む。この強い駆動力に抗うことはできません。

・育児とはこころの交わり春の波