日々彦の文芸欄

日々彦の俳句、随筆など、及び俳句・詩歌・文学などに関するノート、

◎随筆『義父と暮らして』

※2010年に『島根文芸』第四三号に掲載されたものの。そのもとになった原稿。掲載されたものよりも詳しく経過が書かれていて、当時の記録としてそのまま掲載する。義父について、ブログ「家族のこと」などに度々触れている。

 

〇随筆『義父と暮らして』(山口昌彦)

一.はじめに

 現在の日本は人口の五人に一人が六五歳以上となり、今後もさらに高齢者の比率が増え続け、特に八十歳以上の高齢化傾向が顕著となる。しかも、その次の世代も太平洋戦争前後生まれの六十歳代の団塊世代を含んだ大集団であり、その人たちも高齢期にさしかかっている。いずれにとっても未だかってなかったような超高齢社会を体験することになる。

 私は二〇〇七年の十二月に、妻の九〇歳を越える両親と暮らすため三重県鈴鹿市から島根県出雲市に移住してきた。義父母の状況からみて二人暮らしが厳しくなってきていたこと、義父母の期待やごく近い親類の人たちの力強い後押しもあり、四人での暮らしが始まった。四人合わせて三百歳を超えていた。

 この記録は、妻の両親と暮らし始めてから義父伊藤忠一が亡くなるまでの八ヵ月にわたる私と義父との暮らしの記録であり、同時に人が生を全うするとは、「老い」とは、人・家族・社会が「病人」をケア(気遣い、世話、介助など)するとは、人が死ぬとは、どういうことなのかを、確かめ、模索し、考え続けるための覚書である。

 

二.私と母について

 私は五三歳の時、二五年以上所属していたある団体から身を引いた。やめてから身にしみたことは、様々なこだわりに縛られて不自由な自分になっていたことである。離れてからは福祉関連の活動に関わり、様々な人との出会いから、幸せな人生とはどのようなことなのかと考えることが多くなっていた。また、どんな時にでも何事も表面的ではなく自分の意識下の部分にまで掘り下げて考えることが必要で、日々の行為・行動が果たして自分の願っていることに本当に繋がっているのか考えるようになっていた。

 私の両親は、70歳を迎えた時に、子供たち3人に迷惑をかけたくないとの考えで、かなりの金額を出資して湯河原の病院付の有料老人ホームに入所した。今から二十年近く前である。そこは当時、優秀なスタッフも多く評判も高かった。母親は同世代の人との趣味活動や仲間に恵まれていて、入所当時はとても喜んでいた。それから十年後に父が亡くなり、やがて母の身体の状態も悪くなる。入所当時からの友人の死亡や呆け等で話し相手もいなくなり、今では「早く死にたい、お父さんのところに行きたい」と言うことが多くなった。一度、私達夫婦と暮らすことを提案したが、「長男に色々と面倒見て貰っているし自分はここで最後にする」と言っていた。

 私が六十歳の時、妻の九〇歳を越える両親の生活状況が厳しくなっていて、義父母の一緒に暮らしたいとの要望があり、二〇〇七年十二月に三重県鈴鹿市から島根県出雲市に移住した。その折に、湯河原の母に報告に行ったら「羨ましい!」と泣き出してしまった。

 

三.移住するまでの経緯

 二〇〇六年の秋に、義夫母(以下父、母とする)から「施設に入ろうかと考えているので準備のため家の整理をしたいし、話もしたいので手伝いもかねて来てほしい」との連絡があった。早速次女である妻が出雲に行くことになる。その後何度か訪問するようになり、妻は月のうち何日かは実家に行くようになった。

 父は八十歳前にガンとなり、血液などにも転移し一時かなり危険な状態であったらしいが、抗がん剤治療などにより、やがて収まり落ち着いていた。その後脳梗塞にかかり、さらに、先の連絡があった時点では緑内障になり高齢ゆえの手術も断られ、何よりも視力が相当弱ってきていて、大好きな書物もほとんど読めなくなり気持が萎えてきていたようだった。一方母も、その二年前に、近くに用事で出かけた際、バックしてきた車を避けそこなって大きな怪我をして長期入院していた。

 父母は、子供二人のうち、長女は旦那の両親を見ており、次女は鈴鹿で暮らしていて、娘たちと暮らすことはまったく考慮に入っていなくて、施設入所と考えたようであるが、家の整理が進まないことからの私たちへの連絡であった。当時母は要支援二、父は介護認定を受けていなくて、週二回のヘルパー訪問と配食サービス利用程度で身辺のことは自立していた。

 それでも妻が月の内何日か行くようになり、調理や家の整理をすると、食事の内容や家が片付くことなどが嬉しかったようである。

 住み慣れた土地、地域はただ空間的な場所ではなく、その人の人格形成、価値観や人間関係において要するにその人の人生そのものであり、その人の外なるものではなく内なるもの、その人そのものである。高齢社会は多量の独居高齢者を生む社会でもある。父の様子を見ていて、自分たち夫婦が出雲に行き一緒に暮らすという選択肢もあることを伝えると、父母は「そうしてくれたらとても有難い」と言ってくれ、姉や何かと世話をかけていてくれた叔母も大層喜んでくれて、私たち夫婦が移住することになった。

 

四.父母の葛藤

 私たち夫婦が出雲に行ったのは、父母、親戚のそのようにしてほしい期待もあったが、父の様子を見ていて、要介護の認定は受けていなくても、いつ状態が変わってもおかしくないように思え、一緒に暮らした方が良いと考えての移住であった。

 しかし、四十年ほど二人で暮らしてきたペース、やり方、リズムがあり、そこに新しい家族を迎えることはかなりの負担と遠慮を強いることになり、葛藤が生じるのだということが分かってきた。私らが引越しする間際になり、家のことは娘たちに任せ、自分たちは施設に入ったほうが良いとも考えたそうで、実際に到着するまで何かと落ち着かなかったようである。

 一緒に暮らし始めてからも、父は他の人に迷惑をかけたくないとの気持が強く、娘である僕の妻には早くから気を許していたが、僕に対してはかなり長い間気を遣って遠慮していた。

 一例をあげると、父は身体の具合からベッドに横になっていることが多く、貧血がひどいこともあり、起き上がって歩くときに足元がふらつくので、踏みしめるように歩くことで音を立てることになる。夜中には、トイレに行くときに私たちの寝室になっている部屋の横を通るのを大変気にしていて、私たちは全く気にしてないことを伝えても、やはり精神的な負担は解消されず、ぎりぎりまで我慢していたようである。これはかなりの心身負担であっただろう。

 夜にはポータブルトイレや尿瓶などを用意するのだが、感覚的に受け付けようとせず、なかなか使おうとはしなかった。そこで両親と相談し家の改築を進め、部屋の横にトイレを設置した。これで父母は心身ともずいぶん楽になり私たちの気持も落ち着いた。

 一方母は、物忘れが進んできていたが身体は丈夫であった。しかし、娘である妻がテキパキとこなすことに、家事の負担から免れることの安堵感を覚えながらも自分のやり方と違う面が多々あったようで、かなり抵抗もあったようである。妻は母にズケズケと言うことも多く、また、父も娘である妻に味方することもあり、ある意味で家を取り仕切ってきていた母にとってはつらかったことも再三あったようだ。

 長年の生活で身に付いた自分のやり方、役割が変化させられてしまい、今までの生活と新しい家族生活との価値観のズレがお互いの感情に齟齬をきたし大きな葛藤を生み出す。ここには全く違う生活を長年続けた家族同士の価値観・感覚の違いが、お互いの心の歩み寄りにより、重なり合って新しい価値のある生活を健全な形でどのように作り上げられるかという課題がある。

 状況が自分の意思に沿わないときに軋轢・葛藤が生じる。その対処の仕方として①軋轢があるままに我慢する。②私の意思を変えることにより状況を受容し調和していく。③状況を変えることにより私にあった関係性を作る。④私と状況との関係性から逃げ出す。の大きく四通りの対処方法が考えられる。お互いの感情のいきちがいで力関係が生じると、弱い方の高齢者にとっては①④の我慢する、逃げ出す選択肢が多くなってしまう。事態がこじれるとストレスから、うつ、自殺に繋がり、逆に強い方には③の、いじめ、虐待などに繋がっていく問題がある。

 

五.さまざまなギャップ

 あるとき母は、自宅から十分ほどの行きつけの病院から帰ってくるときに道が分からなくなり迷っている時に、顔見知りの介護事業所の職員に出会い、連れられて帰宅することがあった。物忘れの度合いが増してきたことは母も気にしていて、すぐに精神科で診てもらい、認知症が始まっているとのことで、その後の認定調査で要介護二と認定された。

 一方父の方は、介護保険制度の利用のこともあり、申請して要介護一と認定された。私は認定度が低いと思ったが、父は「俺もとうとう介護が必要な状態になったのか」とがっかりしていた。このときの調査では、調査員の質問に対し殆ど「できる」「やれている」と応えることが多く、きちんと評価してほしいので、僕から見た父の現状を言い出すと時々腑に落ちない様子を見せる。

 以前、私が係っていた重度訪問介護利用者から「認定調査で“できない”と応えることが続くと、自分がどんどん小さくなって、なんとも嫌なたまらない気分になってくる」と聞いていたこともあり、父の感情やプライドもあるので必要最小限に伝えていた。このあたりのことは、父の「生きる力」を削ぐようなようなことはするまいと思う気持と、父が客観的に自分を観ることができたら、もう少し楽になるのにと考えたりした。

 この頃の父は日常的に歩行が困難になりはじめ、転んだりしたときにすぐに助け起こすのだが、父の「すまないなー」と言うその気持は素直なものだと思うのだが、相手への心理的な負い目と、自分への不甲斐なさがない混じって、精神的な負担感が増していったようである。父との関わりでは、最終的には父の希望を制限しないことが大事であることを押さえて適切な関係の仕方を探りながら、迷いながら対応していた。一方では、なるようにしかならないというような距離感をとりながら、最低限父の生きていこうとする活力の邪魔をしないことを心していた。

「この程度ならまだやれるはずだと思い込んでいる自分、あるいはそう思いたい自分」と「やれることが減っている現実の自分」にはギャップがある。心身がある程度健康な時は適当な折り合いをつけながら暮らしていくのだが、老齢化により身体が弱ってくると、頭や想像力で考え感じていることと実際の行為・行動の距離が益々大きくなり、その間の調整がつきにくくなる。しかも、「他の人に迷惑をかけたくない」と「自分のことは自分で何とかする」というような自立意識の考え方が大きな価値観になっていて、それはその人の活力の源にもなるが、自分の現状を冷静に見つめることの阻害要因ともなっていく。

 

六.可能性を探る

 家の改築は、父母の現状の環境を大きく変えることなしに、生理的な面、今後の変化などを考慮して設計した。新しい環境で実際どうかなという一抹の不安もあったが、何よりも、トイレが父母の寝室を挟んで設置されたことも含めて行為・行動もやりやすく、心身ともに楽になったようで、父母ともずいぶん喜んでくれ、訪問者があるたびにそのことを伝えていた。

 しかし、父の容態は日に日に変化していった。まず入浴を躊躇するようになった。入浴は本来好きであったのだが、身体への負担が大きく、だんだん億劫になり、娘から強い催促を受けて何とか入ると、入浴後は機嫌がよいのだが、見るからにドット疲れていた。僕自身も手助けをするのだが、父は極度に遠慮していて、僕としても少し距離をおくように関わるようにしていた。結局入浴は困難となり、私の妻が時々身体を拭くようになった。食事、排泄は何とか自分でやろうとしていたが、それもままならないようになってきて、感覚的に拒否していた尿瓶も使い始めた。

 改築後父の寝室に食卓をセットし、そこで皆で食事をするようにしていたのだが、最初はベッドの近くに置いた椅子に移動してきたが、それも一人では難しくなり、食事も介助が必要となってきた。この頃から訪問看護を毎週二回にしてもらった。また、父と相談し枕元に鈴を置き、必要なときに鳴らすようにして、それを聞いたら駆けつけるというようにした。母は、上手に対応出来ないこともあり、私たちに任せて、ほどほどに関わっていた。ある時からは僕と妻どちらかは必ず父の近くにいるようにした。夜も妻は父の部屋のすぐ隣で睡眠をとるようにした。

 そのようになってからも父は自分のことは自分で何とかしようとしていて、ある日、夜明け前に大きな音がしたので駆けつけると、父がトイレに行こうとしてベッドの傍にひっくり返っていた。妻と二人でベッドに引き上げ、便の始末、身体を拭いて汚れた服やシーツを変えた。妻は父に対し苦言を呈していたが、それに対して父も言い訳をしていた。お互い言い分を遠慮なしに出していて、信頼感が確立しているので、微笑ましかった。

 人は精神的に積極的な状態であれば、どんな時でも病気や衰えを生きているわけではなく、より良く生きようと願って行為・行動しているわけで、ケアする側は「その人」の意思・感情をできる限り理解しようとする関わり方で、その上でケアする側もケアされる側も言いたいことははっきり出していき、つまらないシコリを残さないことが大事である。

 ケアする人間関係は一方的ではなく双方的な情緒を介した関係であり、多くの感情的なやり取りがベースになったもので、それに技術的な要素が加わって成り立つのではないだろうか。そのためにも信頼感が欠かせない。完全にベッド上での生活になり、夜間は紙おむつをし、食事も全介助となってからもこのような父の可能性を探る挑戦は続いた。

 

七.「今」を生きる父の喜び

 父は定職を退いてからは植木や庭の手入れにはかなり気をおいていて、私たちにも居宅のある湖陵町差海は海の近くにあり砂地であるが、庭に芝生を植えてここまでにしたが、最近は出来なくなり心苦しいというような話を何度か聞かされていた。私が父からやり方を聞いてバーナーで芝焼きをした時は、その様子を是非見たいと言い、妻に支えられながら縁側に出て来てあれこれと僕に指示してくれた。その時の父は本当に張り切っていて、夕食後もそのことの話で弾んだ。

 寝たきりになってから、姉夫妻、叔母もかなり頻繁に訪問してくれて、大阪からも父の弟夫妻も泊りがけで遊びに来てくれた。この人たちは父にとって掛け替えない人たちであり、黙って傍にいるだけでも嬉しそうで、さらにさまざまな話を交わすのが刺激となり、実に生き生きとしていた。以前、私が養護学校に関わっていた時、運動会や文化祭で張り切リ過ぎて、翌日に状態が極度に悪くなる生徒が出たりした記憶などもあり、あんまり張り切りすぎて後の負担も思わないことはなかったが、そのように考えるよりも、人は誰でも老齢、病気、障碍などを生きているわけではなく、たった一度のその人の「今」の人生を生きているのであり、そこを何よりも大切にしたいと考える。結果としては、叔父たちが、ここに居る間も帰った後も確実に父に活力を齎してくれた。

 老齢化よって身体が衰えていくというのは自分で作り上げた一番良い状態の基準から見た思い込みであり、「身体」は生まれてから何れの時でも、刻々と変わりながら、自分の状態とまわりの状況との平衡状態を保とうとする働きをしていて、まさにそれが生命活動である。身体的には困難を抱えていても、人間の生きる力は計り知れないことを何度か感じさせてもらった。

 人は精神的に積極的な状態であれば、どんな時でも病気や衰えを生きているわけではなく、より良く生きようと願って行為・行動しているわけで、ケアする側は「その人」の意思・感情をできる限り理解しようとする関わり方で、その上でケアする側もケアされる側も言いたいことははっきり出していき、つまらないシコリを残さないことが大事である。

 ケアする人間関係は一方的ではなく双方的な情緒を介した関係であり、多くの感情的なやり取りがベースになったもので、それに技術的な要素が加わって成り立つのではないだろうか。そのためにも信頼感が欠かせない。私たちの実感としては、人は誰とも代替のきかない「私」を生きているが、一方で私は「私たち」をも抱えて生きている。「生」を受けて以来、人は決して一人では生きていけないことはそれぞれの身体に刻み込まれているのであり、したがって、自分の自覚・思惑に関わりなく、「私」は「私たち」の関係世界に溶け込んでゆこうとしている存在でもある。死亡診断書は「貧血」とされた。

 老齢化よって身体が衰えていくというのは自分で作り上げた一番良い状態の基準から見た思い込みであり、「身体」は生まれてから何れの時でも、刻々と変わりながら、自分の状態とまわりの状況との平衡状態を保とうとする働きをしていて、まさにそれが生命活動である。

 以前、私が養護学校に関わっていた時、運動会や文化祭で張り切リ過ぎて、翌日に状態が極度に悪くなる生徒が出たりした記憶などもあり、しかし、父の容態は日に日に変化していった。まず入浴を躊躇するようになった。入浴は本来好きであったのだが、身体への負担が大きく、だんだん億劫になり、娘から強い催促を受けて何とか入ると、入浴後は機嫌がよいのだが、見るからにドット疲れていた。僕自身も手助けをするのだが、父は極度に遠慮していて、僕としても少し距離をおくように関わるようにしていた。結局入浴は困難となり、私の妻が時々身体を拭くようになった。食事、排泄は何とか自分でやろうとしていたが、それもままならないようになってきて、感覚的に拒否していた尿瓶も使い始めた。

 この頃の父の状態は、いろいろな様相をみせた。朝は先ず妻が父の様子を確認して、尿処理、オムツ交換など必要なことをしてから朝食になる。父の寝室にセットしたテーブルで母と私が加わって食事となる。妻は父のギャッジベッドを起こし食事介助する。姿勢としては食べにくい体勢ではあるしあまり長く時間を取ることはできなかったが、いつも父の好きな栄養のあるものを用意していて、父も楽しみにしていた。美味しさが無意識を落ち着かせる。人の発達基本的な触覚と味覚は。老化過程は発達の逆である。

 基本となるのは毎日の食事と排泄である。広辞苑によると「食事」=生存に必要な栄養分をとるために、毎日の習慣として物を食べること。「排泄」=生物が、物質代謝の結果生ずる不用または有害な生成物を、対外に出す作用。とある。

 今日どう食べるのか、どう出すのかにこそ小さな自己実現がある。言葉でなく、非言語的な、意識よりは無意識の、そして老人が自分自身とおこなうコミュニケーションをこそ大切にしている。それは尿意、便意という、自分の身体の中からの声に耳を傾け、判断し、応えることである。

 身体や状況は、老化・疾病・事故などによって次第に衰えてゆくのではなく、いずれのときも、刻々と変わりながら生きている状況との平衡状態を保とうとする働きをしているのであり、それが生命活動である。私と状況との関係性の中で新たに育まれた状態を維持しようとする。互いに変容しあった全体を作り上げていく。

 

八.自分のことは自分だけで決められない

 通常のケアでは、寝たきりになると心身の衰えが激しくなるので、できる限り起きて動くような方式を考え出すのだが、ある段階から、父の場合はできる限り安静にして、父の好きな栄養のあるものを食べさせてくださいとの指示であった。また、いつ何が起こっても対応できる心構えをしておくようにとも言われ、毎日のように往診にきてくれた。

 ほぼ寝たきりになったときの父の身体状態は、赤血球が通常の人の三分の一で、主治医によれば、起きて動き出すとエヴェレストに登るようなもので、普通の人では眩暈がして動けなくなるのだが、父の場合はだんだんそのような身体になってきたので“いけているのだろう”と仰っていた。それまでも主治医は何度か、手術、輸血などを進めたのだが父が頑として断りつづけていて、そんな父の性格を知っていて言わなくなっていた。

 通常のケアでは、寝たきりになると心身の衰えが激しくなるので、できる限り起きて動くような方式を考え出すのだが、ある段階から、父の場合はできる限り安静にして、父の好きな栄養のあるものを食べさせてくださいとの指示であった。また、いつ何が起こっても対応できる心構えをしておくようにとも言われ、毎日のように往診にきてくれた。

 そんな父にとって排泄が大きな課題であった。殆ど寝たきりで、身体の機能としても便秘になりがちで、それにともなって尿も出にくい状態になってきた。それが三日、四日と続くことがあり、「たまらないなー、苦しいなー」と訴えていた父が、出そうだと言うので、僕に支えられてベッド脇に据えたポータブルトイレに移動したが、出そうで出ない状態が続き、敵便をして少しづつ出していったのだが、貧血ゆえの苦しさも加わって、「ハーハー」と息遣いも荒くなっていき、漸く何とか目的を終えベッドに横になった時に、父は「楽になったなー」と泣いていて、僕は汗びっしょりとなっていた。

 これは大きな出来事だった気がする。その前から私と父との信頼関係は増していたようだが,これ以後は、相性もよくなってきた。父の意識は亡くなるまではっきりしていて、考えることが好きで、「こんなに年取るのは初めてなのでどう考えていいかわからない」とかいうような話を僕にしてくるようになった。また「人の手を借りねばならない自分」と「迷惑をかけたくない自分」との折り合いもついたようで、「自分のことは自分で決める」ことから「自分のことは自分だけで決められない」との観方に変化していった。

 私たちの実感としては、人は誰とも代替のきかない「私」を生きているが、一方で私は「私たち」をも抱えて生きている。「生」を受けて以来、人は決して一人では生きていけないことはそれぞれの身体に刻み込まれているのであり、したがって、自分の自覚・思惑に関わりなく、「私」は「私たち」の関係世界に溶け込んでゆこうとしている存在でもある。以前は「長く生き過ぎた、早くお迎えに来てほしい」と洩らしていた父は、そのようなことは全く言わなくなり、いつ、どのように訪れるかわからない「死」についても「大いなる自然にゆだねる」と言うような死生観が現実のものになっていったのかもしれない。

 

九.大いなる自然に還る

 八月三日朝食後「お茶が美味しいなー」と言って、すぐに横になったのだが、だんだん呼吸が荒くなり、下顎呼吸になり、そのうち呼吸が止まったようになり、主治医に連絡し午後二時に死亡の確認がされた。あらかじめ姉夫妻、叔母には連絡し、訪問看護士、などにも連絡し、それぞれが父の元へと集まってきた。穏やかで、美しく、清らかな寝顔であった。死亡診断書は「貧血」とされた。実感としては「亡くなった」というよりも伊藤忠一の人生を「生ききった」ような気がした。

 その後、通夜、葬式、火葬、四九日の法要、お骨収めなど続き、その間でも、新聞その他で知った人たちが、ひっきりなしに訪れて焼香し、父の思い出話をしたりした。九月に入り、カリフォルニアから父に電話があった。戦前の朝鮮元山での殖産銀行時代の同僚で手紙での交流があった朝鮮の人である。祖国分断の中で苦労されて、事情あってアメリカに移住してアメリカ国籍を取得し、現在は子や孫に囲まれながら元気に暮らしているそうである。父の死を伝えると、声が途絶え、泣き出してしまった。「良い人が皆死んでしまう----」後はことばにならなかった。丁寧に経過を伝えて電話は終わった。

 人間の死については、法的には医師の死亡診断をもって「その人」の死亡となる。しかし、身体的に何をもって死亡とすることは厳密にはできないもので、しかも「その人」不在のまま「死」が語られるのであり、深く関係する人たちの個人的な情感の中では「その人」は生き続けていて、これについては百人百様のとらえ方があり、それぞれの「いのち観」というようなものが働いているのではないだろうか。父についても、私からみて、死んだと言うよりも多くの人に見守られながら自然に還っていったと捉えた方が実際に近いのでないかと考える。父は私を含めた何人かの心の中で確かに生きていて、今も様々な影響を与え続けている。

 次に、父の手紙の一節を紹介する。延命処置は一切してくれるなと、数年前に書かれたものに添えて私たちに手渡してくれたものである。

「私は幼児より栄養不足による虚弱体質で意識としても當然短命を観念して居りましたし、長じては種々の大病を経験したにも拘わらず、今日猶生を保ち得てゐるということに常々不思議を感じてゐましたが、之は貴女を始め私の人生に係った各社会、多数の人々の助けに據って生かされ続けて来たものであることに思い至って漸く納得いたしました 九十年余という意表の域に及ぶ生涯になりました。感謝の言葉もありません」

 

十.義父のいのちを見届けて

 義父の人生・命の果てを見届け見守る過程で様々なことを考えさせられた。老齢や死は人としての自然現象である。それについて、現代では負の気分がはびこっているが、若さや生産性に価値があり、老齢や死に価値がないとするならば、人の一生とは日々価値を失っていき最後は無価値となる貧しい人生観となる。そこで私は、一人一人の人生の総和である社会の根底に、豊かな人生観を育てていきたいと願う。その実現には、個人レベルでの自分にも超高齢社会の開拓者である団塊世代にも大きな課題になるのではと考えている。

 母や義父の人生を見守る過程で様々なことを考えさせられた。老齢や死は人としての自然現象であるにも拘わらず、現代社会ではマイナスの感情が強い。若さや生産性に価値があり、老齢や死に価値がないとするならば、人の一生とは日々価値を失っていく貧しい人生となる。現実の介護をどのようにするのかは、様々な社会的な体制を考えていく必要がある。そして、自分に命を与えた親を始め一人一人の人生・命の果てを、家族あるいは人生のある時期を共有した親しい人による見守りを含め、希望のもてる高齢者人生の社会的なあり方を模索していきたいと考えている。