日々彦の文芸欄

日々彦の俳句、随筆など、及び俳句・詩歌・文学などに関するノート、

◎随筆「今、ここに在る幸せを」

※この随筆は、第2回山陰文学賞エッセイ部門の優秀賞受賞の作品で2010年『季刊山陰』第17号に掲載された。当時の記録としてそのまま掲載する。

 

〇随筆『今、ここに在る幸せを』(山口昌彦)

〇母との電話

「元気にしてる? 身体は大丈夫かい・・・」

 電話をかけると、母から最初に出る言葉である。

 私は五〇歳を過ぎた頃、肺炎で二ヶ月ほどの療養生活をした。何かの折に母がそのことを知ってからは、特に、心配が滲み出てくるような言い方になってきていた。

 十三年前に父が亡くなり、その後、母の身体も弱ってきた。私は少しでも励みになればと、折々に電話をかけて母の近況を聞くようにしていた。母は、頭は冴えていて話術も巧みであり、その張りのある声は私を明るくさせるものがあった。しかしそのうちに、その口調は段々陰を帯びるようになり、気持ちも萎え気味である様子が窺え、私も戸惑いながら応答するようなことが多くなっていた。

 暫くすると、かなり足腰が悪くなってきたようで、電話をかけてからの待つ間が段々長くなり、それに比例するかのように、母の第一声の息遣いが荒くなってきた。

 おそらく、這うようにして、必死に急いでいるだろう母の様子が目に浮かび、電話に出るまでは、こちらの気持ちも落ち着かない。話の端々にも、その見通しの暗さにやっと耐えているような、力のない沈んだようなトーンが多くなり

 まもなく、

「早く死にたい、お父さんのところに行きたい」と言うようになってきた。

 最近は電話を、夕食後すぐの六時にかけると約束しているのだが、私はためらいながら、緊張感のある心持ちで番号ボタンを押している。

 漸くたどり着いたであろう心臓の高まりと、おそらく息子とのやりとりによる高揚感もあり、息遣いも戻らないまま、声のトーンもいささか上擦っていて、興奮気味で話は続く。私も努めて明るく応じようとするし、手短にしてできるだけ負担がかからないようにとも思うようになる。最後には母から、

「身体に気をつけてね。あまり無理をしないようにね・・・」という声かけがあり、

「そうするよ。お母さんもね・・・」

で電話は終る。

 

〇母の暮らしぶり

 私の両親は、七十歳を迎えた時に、子どもたち三人に迷惑をかけたくないとの考えで、かなりの金額を出資して静岡県の病院付の有料老人ホームに入所した。今から二十年近く前である。そこは当時、優秀なスタッフも多く評判も高かった。

 両親は同世代の人との趣味活動や仲間にも恵まれて、入所当時はとても喜んでいた。環境的にも風光明媚で気候は温暖、春夏秋冬の装いを変える山並みの美しさに囲まれ、近辺の道々には、季節ごとの樹木・花々が艶やかに彩りを添えている。夫婦での毎日の散歩を何よりも楽しみにしていた。私も兄・妹も、さまざまな苦労を重ねて、子どもたちも無事に育て上げた両親の終の住処として、「ほんとによかったね」と心底安心し、ホッとするものを覚えたものだった。

 それから八年後に父が亡くなり、やがて母の身体の状態も悪くなる。入所当時からの友人の死亡や呆けなどで、話し相手も減り続けていた。更に、歩くのも段々大層なことになってきていた。

 以前は正月・母の日・誕生日など、ことある毎に電話をかけて、母の冴えた明快な応答ぶりに、こちらも励まされていたが、今は電話に出ることもかなりのエネルギーを使うようになった。最初の息遣いが一段と荒くなってきて、近頃は、何か申し分けないような気持ちにさせられる。今では、「早く死にたい」との言葉が、早い段階で出てくるようになった。

 現在の母は股関節や足腰が悪く、殆ど這うようにして暮らしている。五〇㎡ほどの二DKの部屋で、さまざまなところを掴まりながらの生活である。そのために障子は、あちこち破れていて、その箇所が段々多くなり、しかも低くなってきている。一見、物も散らかっているように見える。そんな状況を見られたくないので、施設関係者以外の訪問は、嫌がるようになってきていた。

 しかし、実際に訪問し接してみると、母の動き方の見事ともいえる活力に圧倒されてしまう。物の置き場所も、動きやすいように設置されていて、より良く生きていこうとする生命力の巧みさを感じる。

 私は、偶に顔を出すように意識していて、あらかじめ連絡すると、

「大丈夫かい、あまり無理をしないようにね。わたしはなんとかやっているから」

と言いながらも、何か期待するものも感じられたが、最近では訪問する話を出すと、

「遠いところから、わざわざこなくていいよ」と、口調も重くなってくることが多くなってきた。

 何ももてなしができない。その上、今の自分の姿を見られるのは、母にとって重苦しいことであり、気質からしても耐えられないことは、こちらも痛いほど察しがつく。まして、私たち夫婦で訪問することを伝えると、その億劫がる口ぶりに対し、なんとか訪問の了解をとることに、息苦しい気持ちが伴ってくるようになる。

 母は私の妻を気に入っていて、そんな妻に、自分の姿を見られることは、自尊心の強い母にとっては、ある種の堪らなさが起こってくるのは仕方ないかなと思う。

 しかし、二人で顔を出すと、非常に嬉しい様子も伝わってきて、結局は張り切って心も口も弾んでくる。余計な推測が入る電話とは違い,お互いに、とても楽しい一時を過ごしているのではないかなと思っている。

 今では前もって、妹に連絡してから訪れるようにしている。現在妹は東京に住んでいて、片付・洗濯・部屋掃除など、随時母の世話をしに顔を出すようにしている。妹によると、

「とにかく時々は、母がなんと言おうと、顔をみせてやって。お母さんはなんだかんだ言っても、まーちゃんに会うのは嬉しくてたまらないんだよ」と言ってくれる。

 どうも他の兄・妹に比べて、とりわけ私のことを心配しているようである。

 また、母に対する評価は、私に比べて妹は辛いのだが、多分に、そちらの見方のほうが客観的なんだろうとは思う。

 

〇老人ホームでの母

 施設での三度の食事は、職員がお膳を運んできてくれて、母はたった一人の食事を部屋でする。自立者用向きの老人ホームゆえ、援助されながら車椅子を使って、施設の食堂で食べることはできないそうである。何度か施設の人に交渉しようかと母に提案するのだが、

「そんなことはしてくれるな。ここではそうなっているので、施設に迷惑がかかる」と頑に拒否をする。

 有料老人ホームというのは、身の回りのことは自分でできることがある意味前提になっていて、この施設も介護保険制度の流れの中で、数年前に介護付有料老人ホーム(一般型特定施設入居者生活介護)となってはいるが、介護用の居室も全体の一割程度であり、部屋面積も小さく、結論的にここでは重度化対応に限界がある。

 また、九十歳を迎えた母は、今更そこに移ることは全く考えられない状態である。施設の対応については、愚痴っぽい話も度々出るようになったが、終始自分自身の意思と行動で選択してきているので、良きに付け悪しきに付け、「誰にも文句は言えない」ときっぱりとした心意気を持っている。

 一度、私達夫婦と暮らすことも考えられるのではと、そのような話もしてみたが、

「お前たちは、泰子(私の妻)の両親を見るように。自分は長男に面倒を見て貰っているし、娘も来てくれるし、ここで最後にする」と毅然たる態度で言い切った。

 私が六十歳の時、九〇歳を越える妻の両親の生活状況が厳しくなってきて、一緒に暮らしたいと義父母の要望があり、二〇〇七年十二月に三重県鈴鹿市から島根県出雲市に移住した。その折に、静岡の母に報告に行ったら「羨ましい!」と泣き出してしまった。

 

〇母の思い出

 母は一九一九年朝鮮で生まれた。母の父が朝鮮総督府の要職についていて、そこで育ったのだが、五歳の時に父(私の祖父)が亡くなり、父の実家の岩手県に越してきた。その後、母(私の祖母)は再婚したが程なく急逝し、結局、祖父母に養育されたそうである。学業は好きで優秀だったそうだが、高等小学校までで、家(農家)の担い手として働いていた。やがて、家同士の結婚の話が持ち込まれ、家の柵から、逃げるように飛び出したのが二十歳だったそうである。

 その後、私の父と結婚し、三人の子どもを育ててきた。父の商売は軌道にのり、母の内助の功もあり、東京での中流の上といった暮らしぶりであった。私も、心身ともに不自由を感じることなく育ってきたと思っている。

 私は二十歳過ぎてからは、一応経済的には自立した。就職もしないで各地を転々としていた時期もあり、ある団体に所属してからは活動に打ち込んでいて、接する機会は少なかったが、母からはある種の信頼を得ていて、いつ会っても温かく迎えてくれた。

 私の小さい頃は、車も冷蔵庫も洗濯機もまだなく、母が台所で七輪などを使って調理している姿や遊んで泥だらけになった服を、洗濯板で洗っている姿、あるいは夜遅く、継ぎ当てをしている姿など、何かの折に、そのような出来事がまざまざと蘇ってくることがある。

 そのようなことは、その当時には何も感慨を覚えず、殆ど当り前のように通り過ぎてきたものである。このように挙げていくと、してもらっていることばかりで、何もして返していない自分に、戸惑うばかりである。

 五十代になって漸く、母の弱っていく姿に、何とかしてあげたい気持ちが湧き溢れてきているが、なんともできない状況が続いている。

 

〇老いの自覚

 私も六十歳を超えた頃から、何かしら言いようのない不安が擡げてきているのを感じている。それは、言葉にすると、「老いの自覚」ということになる。

 今から八年前に、二六年間在籍していた団体職員を辞めて、その後、福祉関連の活動をしている。二年前には、九十歳を超える妻の両親と暮らすため、出雲市に移住して、次の年八月に、介護していた義父を亡くし、馴れない法事も何とかやり終えた。

 そして、出雲に移住してきた頃から、私自身の身体に、あちこち歪みが出てきて、なにかと病院に通うことも増えてきている。「死」ということについても、三人称から二人称へ、そして同時に一人称の領域に入ってきている。

 少し前に母のもとに訪問した時、

「お前、絶対私より先には死なないでね」と言われたことがあり、急に何を言い出すのかと吃驚したことがある。

 母が十年前に私の肺炎を知ったのも、私の顔色を見て心配するので、「実は入院していたが、もうすっかり治ったんですよ」と、ついもらしてしまったからだった。母からは、論理的というより、直感的に物事を捉える力を感じる。

 

〇「老い」のイメージ

「老いる」とは、どういうことなのかについては、少し前の私には、「次の春が訪れない冬」のイメージが出てくるのであった。

 私たちは、遺伝子の振る舞いから見たら、母親の胎内で受精した瞬間から死に向かって歩み始めるらしい。しかも一瞬先のことは誰にもわからない。

 しかし、生まれてからかなりの年齢に達するまでは、意識としては、いつでも明日に向かって道が開かれていると思い込んでいる。その道には幾多の分かれ道があり、ある時は迷いながらも、前に向かって道が伸びていることに疑いを抱くことは少ない。幼年期・少年期から青年期にかけては、その道が大きく広がっていて、働き盛りといわれる壮年期にも衰えることはない。

 ところが、ある段階に来ると、道がかなたに伸びているとはとても思えなくなってくる時期が来る。現在の私のように。それが向老期ではないかと思う。

 そして、人生という道がやがて行き止まりとなるとの意識が段々強くなっていく時期が来る。それが、私の母のように老年期の大きな特徴の一つと言えるのではないか。

 また、私たちの一般的な季節感では、春は生命の息吹が芽生え、夏は生命が躍動し、秋は生命の豊かな実りを迎え、そして冬は来るべき春に備えて生命のエネルギーを蓄える時というイメージがある。しかし、人生の季節では、向老期、老年期は秋から冬になる時期だが、巡ってくるべく春が描けないのである。しかもそれが何時まで続くのかわからない。

 もちろん人生の段階の分け方には、いろいろあるし,年齢を加えていくほど個人差が大きくなると思われる。一人一人の人生観も大いに異なっているので、その向老期、老年期と言われているものをはっきり区分けするのは大変難しいし、そのイメージにもさまざまあるだろうとは思う。

 私は福祉活動する中で、死の間際においても、柔軟で心の豊かな高齢者にも触れてきたし、情報としても、感心するような敬愛するような話を聞いて、自分もそういう生き方でと納得していると思っていた。

 しかしながら、その渦中に入りかけた自身に問うてみると、自分でもあまりパッとしないイメージが湧いてくるのである。

 

〇今ここに在ることの幸せをかみしめて

 なぜ「老い」について、このような寂しいイメージが湧いてくるのかというのが、私の喫緊の問題意識となった。

 老齢や死は人としての自然現象であるにも拘わらず、現代社会ではマイナスの感情が強い。若さや生産性に価値があり、老齢や死に価値がないとするならば、人の一生とは日々価値を失っていく貧しい人生となる。

 どうも大きな捉え違いをしているのではないのか? 

「進歩するのが良い」「役に立つのが良い」「できるのが良い」と。

「いまここに、そのままの、あるがままに存在している」ことよりも、「明日に向かって夢を託す」ことに日々の活力の多くを費やしているのではないか?

「お金を貯めなくては」「いい学校・会社に入らなければ」「生きがいのあることを見つけなくては」と。

 本質的に、人間は良く生きたいという本能を強くもっていると思われる。どんなに年を取ろうと、どんなに重い病気になろうと、どんな苦境に立とうと、「良く生きたい」という気持ちは簡単にはなくならないはずである。

 それに応えてくれるものが、今ここに、日常の暮らしに満ち溢れているのではないだろうか。

 次に進むことにあくせくして、今ここに在るものに、どれだけ心を向けているのか。

 季節としての巡りくる春だけではなく、今ここに在ると思われる「春」をどれだけ観ようとしているのだろうか。

 私たち夫婦が出雲に移住した当時は、義父も、「早くお迎えにきて欲しい」とよく洩らしていたが、四人での暮らしも段々落ち着いてきて、亡くなる一ヶ月ほど前からは、そのような呟きは全く出ないようになった。

 寝たきり状態になって身体は極度に弱っていたが、感受性が高まり、生命のしたたかな活力を感じさせるような日々が続いていた。見舞いに訪れた人との会話を楽しみ、少ししか入らない食べ物に満喫し、苦しい便秘が続いていた後に、介助されつつ便が出た時は歓喜の声をあげたりした。ある日の朝、「お茶が美味しいな!」と言い、その後静かに息をひきとった。親族はじめ、関係者一同羨むような、尊厳ある大往生であった。

 母や義父の人生を見守る過程でさまざまなことを考えさせられた。時の流れ自体は押しとどめることはできない。誰も避けられないのが老いであり、死である。

 現在の私は、どんな場合でも、年老いた時には尚更、自らの価値を問うこともなく、生きがい感に執着することなく、今在るそのままの自分を受容できる包容力を身に付け、現時点での自分そのままで、その生命力を謳歌できるものを見出していきながら、悠揚と歩んでいきたいと考えている。

 

父の十三回忌

 昨年、東京での父の十三回忌を終えて、帰りに母のところに寄ったときは、話が随分弾み、四時間ほどに及んでしまった。母の話も冴え渡っていて、とりわけ楽しい様子が伝わってきた。

 以前、私が養護学校に関わっていた時、運動会や文化祭で張り切リ過ぎて、翌日に状態が極度に悪くなる生徒が出たりした記憶などもあり、あんまり張り切りすぎて後の負担も思わないことはなかったが、そのように考えるよりも、人は誰でも老齢、病気、障がいなどを生きているわけではなく、たった一度のその人の「今」の人生を生きているのであり、そこを何よりも大切にしたいと考えている。別れ際に母は、

「無理をしないで身体には気をつけてね。今日はほんとに有難う・・・」と言いながら、私の両手をぐっと掴み、私も握り返していた。

 妻には、

「くれぐれも、よろしくね・・・」と柔らかい声かけをする。私たちは、

「また、来るからね・・・」と言い、何か後ろ髪を惹かれるような思いも付きまといながら部屋を後にした。

 

〇生き方の礎として

 現在の母の状況は、確かに人生の冬の真っ最中である。けれども、日々の暮らしの中に、心の中に、春らしき生命の息吹を見出しながら生きていって欲しいなと願っている。もちろん、そうならなくてもOKである。

 私には、時々顔を見せたり、手紙や写真を送ったりすることしかできないが、聡明な母の生命力は必ずやそこを見出していくのではと予感めいたものもある。

 どんな時にも、母が、あらん限りの誠意をもって、一点の曇りなく、親として、そして母として、私を愛していてくれていることに、かなりの確信めいたものがある。それは、自分の生き方の、礎の確かな要素になっているのではと思われる。

 そして、自分に命を与えた親をはじめ、一人一人の人生・命の果てを、家族あるいは人生のある時期を共有した親しい人による見守りを含め、希望のもてる高齢者人生の社会的なあり方を模索していきたいと考えている。